旅人たちの紡歌

眠りの白に導かれ | 2章「忍び寄る者」-02


「マッカヤさん!」
 馬車の乗り場にたどり着くと、ターキィは目ざとくマッカヤの姿を見つけて駆けていった。馬の足下で中腰になっていたマッカヤは振り向くと、顔をほころばせて立ち上がった。辺りには客待ちをする馬車がずらりと並んでいる。厩舎から漂ってくる匂いに、エルセの呼吸は自然と控えめになる。
「おや、そちらの彼女はこの間の。エルセさん、でしたか」
「うん。遊びに行ってこいって母さんが」
「おやおや、いいですねぇ」
 マッカヤはそう言って、ひどく色気の含んだ視線をエルセに向ける。エルセは思わず目を逸らした。逸らした先に花壇があるのを見つけると、ことさらに笑顔をつくって近づいていった。もちろん、花を愛でるような気分であるはずがない。
 ともにやってきた二人の若い男女に、マッカヤが何を想像したのかを思いはかることは簡単だった。鮮やかに咲き誇る花が、急に色あせていく。ターキィが追ってこないことを祈りながら、エルセは花壇の傍に座り込んだ。
 ターキィが嫌いなわけでは決してない。幼なじみであり、大事な遊び友達でもあった。事情が事情とはいえ、いきなり転がりこんできたエルセに嫌な顔ひとつすることなく接してくれている。だが、それとこれとは別だった。エルセにとっての想い人は兄リオット、ただ一人。そのリオットとは、もう言葉を交わすことすらできないのだ。この思いを嘘にするようなことなどしたくない。リオットを裏切るようなことなど、あってはならない。今すぐに一人になって、夢の中の兄に会いに行きたかった。
「エルセ? どうした?」
 背後から降ってきたのは、エルセの心中にまるでそぐわない脳天気な疑問符。このまま意地でも動かないでいたらどうなるだろうか。ターキィに背を向けたまま、邪な思いつきが脳裏をよぎった。戸惑うだろうか、悲しむだろうか。意気揚々と今日のために準備をした昨日の自分を後悔するだろうか。いや、そんなことをさせたいわけではなかった。誰も悪くない。ただ、誰の思いもかみ合っていないだけなのだ。それならば、エルセが取るべき行動は一つしかなかった。
「ごめん、ちょっと考えごとしてた」
 取り繕った笑顔を張りつけて振り返る。いきなり立ち上がったエルセに驚いたのか、ターキィの身体がのけぞった。
「そっか。……あんまり一人になるなよ」
 神妙な顔つきをするターキィを差し置いて、エルセはことさら軽快な足取りで馬車へと戻った。

「よろしいですかな?」
 二人とも乗り込んだことを確認すると、マッカヤは馬車を出発させた。幼なじみと遊びにいくだけのことが、これほどまでに気が重くなるときがくるなど思ってもみなかった。窓の外を流れていくのは、ありふれた田舎町の風景。次第に建物が増え、道は整備され、家の外観も洗練されたものになっていく。胸を刺すきりきりとした痛みも、次第にその威力を増していった。降り場につく頃には、来たばかりだというのに憔悴を隠しきれなかった。
「はいよ、お疲れさん」
 マッカヤの陽気な声が前方から飛んできて、エルセの気持ちを逆撫でする。
「ありがとう」
 ターキィがお礼の言葉とともにお代をマッカヤに手渡す。エルセはゆっくりと地面に降り立った。石造りの四角い建物が建ち並ぶ中を、通ってきた細い道がまっすぐと貫いている。人の姿はない。祭りのような賑やかな音楽が、どこからともなく耳をかすめた。
「今日は交易市の日か」
「交易市?」
「うん。いろいろな地方から商人がやってきて、地元の特産品を売ったり、芸を披露したりするんだ。ここらじゃ食えない珍しいもんがたくさん食えるんだぜ。あ、あと髪飾りなんかも売ってる。せっかくだし、遊んでいこうぜ。ぱーっと。な?」
 エルセの方を一度たりとも見ることなくまくしたてる様子が、どことなく痛々しい。がたがたと馬車が去っていくと、二人は道に沿って歩き出した。喧噪が次第にはっきりと聞こえてくる。
「ほら、着いた」
 角を曲がると、石壁ばかりだった視界が急に色であふれかえった。町を貫く大通りは露店と行き交う人々でごった返している。広場には大きな噴水が設置されていて、青空を涼やかに彩る。噴水を取り囲むように並んでいるのは鼓笛隊だ。晴れやかな制服をそろって身につけて、思わず踊りだしたくなるような音楽で喧騒を包みこんでいる。
 圧倒されたエルセは、人波から離れたところで立ちすくむことしかできなかった。だがターキィは慣れた様子で、視線をきょろきょろとさせながら何かを探している。
「あっ、エルセ、ライナンのパイだぜ」
 やがて露店の一つを指さすと、そこめがけてまっしぐらに駆けていった。はぐれまいと人波をかき分けながら、必死に背中を追う。
 人波を抜け出して露店にたどりつくと、ターキィが手のひらくらいのパイを商人から受け取っていた。香ばしい匂いが辺り一帯に立ち込めて、通りかかった人々の足を誘いこむ。こんがりと焼き色のついた表面には、なめらかな光沢が重ねられている。ターキィはそっと半分に割った。中からあらわれたのは紅色の丸い果実だった。見たことのないその果実を、エルセはまじまじと見つめた。裂け目からは紅色の果汁が、作りたてのジャムのようにとろりとこぼれ出している。ターキィは得意げな表情で、片割れをエルセに差し出した。
「ライナンっていう実だよ。南の方でしか採れないから、俺もあんまり食べたことがない。すっぱくて、でもすっげー甘いんだ」
 エルセが顔を近づけてみると、なるほどつんと鼻の奥が刺激される。前歯で挟み込むと、薄く重なったパイ皮が小気味よい音をたてて口の中を崩れ落ちる。次いで、弾力のあるライナンの実が果汁と絡み合いながら舌の上へ落ちてきた。奥歯で噛むと、目の奥をつんと刺激されるような感覚の後、甘みが頬いっぱいに広がった。初めての食べ物をこわごわと味わう様子を、ターキィが面白がるように見つめている。その表情に、兄の姿が重なった。
 そういえば兄リオットも、エルセが慣れない料理に奮闘するのを見て同じように笑っていたっけ。両親が亡くなって二人で暮らしはじめたときのことだ。兄は仕事をしているから、必然的にエルセは家事の担当になった。それまで、料理などしたことがなかったにも関わらず。食料品店に行けば売り物の種類の多さに目がくらみ、ぎこちない手つきで調理器具に振り回されるエルセの姿を眺める兄も、同じ表情をしていた。だが、そんな兄に嫌な気持ちは抱かなかった。いつだって兄は、エルセの料理を平らげてくれたからだ。作った本人ですら口に入れたくないほどの失敗作だって、作り直そうとする手を制止して、気がついたら鍋は空っぽだった。そのときの、兄の穏やかなまなじり。あの温かさが、エルセの心を縛りつけたまま離さないのだ。
 ぼんやりと回想に沈んでいたエルセは、ふと何かに見られている気がして後ろを振り返った。照りつける太陽の下、市場には変わらず人波がうねっている。誰もが立ち並ぶ露店に夢中で、エルセに気をとめる人などいない。思い過ごしかと、胸をなでおろす。露店の屋根に止まっていたカラスが一羽、音もなく飛び立っていった。カラスが次第に黒い点へと形を変えて空の向こうまで消えていくのを、何となしにじっと見つめていた。
「エルセ?」
 声をかけられて、エルセははっと我に返った。握りしめたライナンのパイは、いつのまにか湯気をたてることをやめていた。
「どうかしたのか」
「ううん、なんでもない」
「そうか」
 ターキィは深く追及しなかった。エルセは再び後ろを振り返る。相変わらずの人波だが、どことなく様子が違う。ごったがえす人の話し声やときおりわき起こる歓声、飛び交う怒号めいた声が、まるで壁でも隔てているかのように遠い。すぐそばにいるはずなのに、自分だけどこか別の場所にでも立っているかのような……。
「エルセ? どこへ行くんだ」
 突然、エルセがふらふらと人波の中へ迷い込んでいくのを見て、ターキィはパイの残りを口の中へ押し込んだ。
「エルセ? おい! エルセ!」
 ターキィの呼びかけに応じることもなく、エルセはまるで何かに操られているかのように、おぼつかない足取りで人波に吸い込まれていく。
「エルセ!」
 ターキィは駆け寄って手を伸ばした。一瞬だけ指先がエルセの服をつかんだものの、人の勢いにおされてすぐに滑り落ちてしまった。
 やがて、エルセの小柄な身体は完全に飲み込まれていった。