眠りの白に導かれ | 2章「忍び寄る者」-03
「見つけた! 奴に違いない」
「本当ですか。では、早速隔離に入りましょう」
「言われなくてもそうするさ。見張りを頼む」
「言われなくても、準備してあります」
魔術師棟の、とある一室。二人の魔術師が興奮に声を荒げていた。一人はまだあどけなさの残る若い魔術師で、もう一人は彼より二十ほど先輩といったところだろう。
若手の魔術師は素早く扉の前まで歩み寄った。術を使っているときは、闖入者の存在が一番厄介なのだ。部屋の外に誰もいないことを確認すると、素早く結界を張る。この程度の術なら、まだ経験の浅い彼でも息をするように使うことができる。結界を張っておけば、今まさに執り行おうとしている隔離を邪魔されることはない。彼は再び部屋の中央に戻った。
先輩の魔術師が、机に置いた硝子板をじっと凝視している。魔力の自然な放出を抑えて、術と呼ばれる型に嵌めるためのものだ。彼はまだ使い方を教わっていないが、難しい術を使うためには必須らしい。彼は必要以上に近寄ることなく、先輩の魔術師の動きを見守っていた。
「よし……、隔離は成功だ」
先輩の魔術師は硝子板から目を離さずに言った。隔離が成功したということはすなわち、自分たちが暮らしているこの世界から目的の少女だけが切り離されたということだ。あとは少女をここまで誘導することができれば、上司であるフーリエスから言い渡された任務をまっとうすることになる。
若手の魔術師は、胸が高鳴るのをおさえきれなかった。突然会議室に呼び出されて任務の内容を告げられたときは、あまりのつかみどころのなさにずいぶん焦ったものだ。なにしろ、手がかりが少なすぎる。それに、失敗した者は切り捨てるなどという普段のフーリエスからは想像もできない言葉。なにやらいわくありげな話だなと思いつつも、簡単な術しか使えない彼にできるような内容ではない。諦めかけていたところに、一緒に組まないかと声をかけられたのだ。もしも成功すれば僥倖だった。評価を得られたら、もっと難しい術を教えてもらえる。魔術師棟から出ることすらできない上に簡単な術しか使わせてもらえない毎日は、正直に言えば退屈なのだ。
あれだけの手がかりでよく見つけられたなと、彼は感心した。あるいは彼の知らない難しい術を駆使すれば可能なのだろうか。フーリエスがすべての魔術師を集めて命じるぐらいなのだから、たやすくはないのだろう。いずれにしても、思いがけないおこぼれにあずかれそうだ、と頬が緩んだ。
彼はちらりと窓の外へ目をやった。彼らの仕事場は、司令部から少し離れた森の中にある。魔術師の体質が一般人に及ぼす影響を考えてのことだ。知ったことか、と思いつつも実際に口に出す度胸などない。建物を囲う石垣の向こう側から、いささか元気に生長しすぎた広葉樹が張り出してきている。そういえばもうすぐ草むしりの当番だったか。ふと思い出して、彼の表情は曇った。
任務の成功を疑うことなくとりとめのないことを考えていたら、突然何かが倒れるような音がした。びくりと身体が跳ねた。はっと視線を部屋に戻すと、先ほどまでじっと座っていた先輩の魔術師が立ち上がっていた。腰掛けていた椅子は足元に転がっている。机の上に硝子板を押しつけて、腕をわなわなと震わせている。
「クソがっ……!」
異様な雰囲気を察知して、彼は先輩の魔術師へ駆け寄った。
「どうかしましたか」
声をかけていいものかどうか迷った末、彼は遠慮がちに喉から声を絞り出した。先輩の魔術師は力なく崩れ落ちる。返事を聞くまでもなく、何が起きたかを悟った。少女を発見し隔離までしたのに、肝心なところで取り逃がしたのだ。失敗、という言葉が脳裏に浮かんだ。つまり、フーリエスの評価を得られる貴重な機会を逃してしまったのだ。
こんなときはなんと声をかけたらいいのだったか。若手の魔術師は、頭の中に蓄積された経験を必死に探った。結局、それ以上何も言わないことにした。
***
気がついたら、路地へ入り込んでいた。そして、気がついたら一人だった。
「ターキィ……?」
エルセの呟きは、どこにも届くことなく消えた。きょろきょろと辺りを見渡してみても、背の高い壁がひたすら無機質に続いているだけだ。見上げると、細長く切り取られた空が不自然なほど白い。
つい先ほどまで一緒にいたはずだ。唇を舐めると、ライナンの甘酸っぱい味が頬に広がる。幻ではない。それに、あれほどいた人の波は一体どこへ消えてしまったのか。耳を澄ましてみても、人の声はおろか物音ひとつしない。
エルセは身震いをした。まるで自分だけが違う世界へ迷い込んでしまったかのようだ。いや、実際に迷い込んでしまったのかもしれない。瞳に映るすべてのものが、まがいものであるかのように現実感がなかった。体内に送り込まれる空気すらも、だ。作られた世界の中に一人放り込まれた少女のことを上空からなめ回す巨大な双眸が、今にも姿を現しそうだった。
そんな子供じみた想像から逃げ出すように、エルセは駆けだした。いくら走っても視界がとらえるのは同じ風景ばかり。一体、自分はどうしてしまったのか。大声をあげて叫びたい気分に駆られたが、どういうわけか喉から漏れるのは荒い呼吸音と、嗚咽のようなかぼそい声ばかりだった。
夢であってほしいと願った。どれだけ走れば、どこへ向かえば、何をすれば、この悪夢は終わるのだろう。現実を受け入れることをぐずぐずと拒んでいたエルセへの罰なのだろうか。逃げ出してしまいたいと何度も考えたがために、本当にどこか別の場所へ飛ばされてしまったのだろうか。もう逃げない、そう誓うことで許してはくれないだろうか。許しを請う相手すら見つからないまま、ひたすらエルセは走り続ける。
「きゃあ!」
突然、足が何かにつまずいて、エルセは前につんのめった。そのまま身体が地面に放り出される。ざらざらとした地面に額が擦りつけられ、ひりひりと痛みが走った。泣きたくなった。こんな仕打ちを受けなければならないほど、一体自分が何をしたのだというのか。
呻き声を漏らしながら顔を上げた瞬間、エルセははっと辺りを見渡した。先ほどまでさまよっていた場所とは明らかに異なる、見慣れた雰囲気の路地だった。そう遠くないところから喧噪が聞こえる。帰ってきたのだと直感が告げた。振り返ると、竹編みの花籠が散乱している。どうやら、これにつまずいて転んだらしい。
足音が近づいてきたかと思ったら、エルセの前で止まった。
「ほら」
声のした方に頭を向けると、ターキィが立っていた。むすっとした顔で手を差しのべている。今度はためらわなかった。エルセは右手をのばした。ずきずきと痛む手足を奮い立たせて、身体を起こす。
「何してるんだよ、どこ行ってたんだよ」
エルセは答えなかった。答えようがなかった。ターキィもそれ以上追及しようとはしなかった。二人は黙って帰路についた。
空の端を染め上げる橙色が、夕暮れを告げている。こんな空を見るのはなんだか久しぶりな気がすると、エルセは新鮮な感覚にとらわれた。