眠りの白に導かれ | 1章「始動」-02
リオット少佐、とラーケスの口から飛び出した人物を思い浮かべる。思い浮かんだのはまだ二十五、六かそこらの青年だった。一見すると文官と取り違えてしまいそうなほど物腰の柔らかい青年だが、少佐にまで昇進していたとは知らなかった。ティテルス防衛線、捨て戦だとはなから決めてかかった戦に赴いてむざむざと命を落とさせるとは、有望な若者にむごい仕打ちをするものだ。
暗澹たる気持ちになりかけたところで、ウェルバーニアは思考を切り替えた。今、考えるべきなのは彼の方ではない。訪ねてきた女は、おそらく肉親だろう。わざわざ葬儀にエレンシュラ軍を訪ねてくるなど、血でも繋がっているか、あるいは恋人でない限りしないだろう。昼間にちらりと窓から見かけた女の顔を思い返す。恋人にしては幼すぎる。
「妹か」
ウェルバーニアがぼそりと呟くと、ラーケスは不意をつかれたように目を泳がせた。なんと返したらいいのかわかりかねているといった表情だ。助けを求めるようにフーリエスの方を見やる。これだから、甘やかすのはいけないのだ。
「あ、あの……」
「もういい」
口を開きかけたラーケスを、ウェルバーニアは手で制した。
「助かった。休んでくれ」
訪ねてくるときも突然だったが、去るときも突然だった。ラーケスがあっけにとられている間に、二人はすでに廊下の角に消えていった。頭の中には疑問が渦巻きながらも、どことなく誇らしげな面もちで、ラーケスはもといた部屋へ戻った。
司令部へ戻ると、ウェルバーニアはフーリエスを手頃な会議室へ連れ込んだ。
「どう思う」
「リオット少佐ですか」
「違う。女の方だ」
扉を閉めるなり、ウェルバーニアは座る手間も惜しいと言わんばかりの口調で問いかけた。まるで罪を糾弾するかのような勢いだ。机と椅子だけが無愛想に並べられた白い部屋は、さながら罪人を閉じ込める牢といったところか。司令部のこの冷たさが、フーリエスは苦手だった。
どう思うと訊かれたところで、フーリエスは実際に見かけたわけではない。答えあぐねていると、ウェルバーニアの方から沈黙を破った。
「あの女を捕らえろ」
「は?」
思わず素っ頓狂な声をあげたフーリエスに、じろりと鋭い視線が向けられる。
「聞こえなかったか? あの女を捕らえろと言った」
「お、お待ちください。まさか彼女が、リオット少佐の妹が件の少女だとでも」
「そうでないのなら、こんなことを命じる理由を教えてほしいものだな」
「ですが……確証がないのでは」
控えめに上申するフーリエスを、ウェルバーニアは射抜くように見入った。付き合いの長い自分ですら、この視線には未だにたじろいでしまうのだ。先ほどの兵士――ラーケスといったか――が感じた恐怖はこの比ではないはずだ。ひそかに同情を寄せながら、フーリエスはウェルバーニアの口が開くのを待った。
「当然だ。それを得るために捕らえるのだからな」
あまりにも身勝手な言い分だった。兄を亡くした傷心の少女を、確証もないまま捕らえるなど許されるのだろうか。だが、目の前の指揮官は唇を固く結んでいて、放った言葉を撤回する気などみじんもなさそうだった。ならば、従わないわけにはいかない。
「……承知しました。さっそく部下に話をつけましょう」
「ああ。頼んだ。わかっているとは思うが、くれぐれも奴らに知られることのないように」
フーリエスは慇懃に一礼すると、ウェルバーニアを残して会議室を出た。緊張から解き放たれた瞬間、どっと汗が吹き出してくる。猶予は終わったのだ。均衡を保つ世界に一石を投じる役目を、他ならぬ自分が背負ってしまった。
居所である魔術師棟に戻る夜道、頭上で瞬く満天の星が、自分に向けられた非難の目に思えて仕方がなかった。
***
名前もつかないほどの遠戚の家に向かう馬車の中は、春先だというのにひんやりした空気に満ちていた。ときおり道ばたの石につまずいてがたんと大きく揺れるたびに、エルセは窓枠に手を引っかけて踏ん張らなければならなかった。知らない町の景色が窓に映し出されては、そのまま流れ去っていく。
「行ってきたのか」
轍の回転する騒々しい音に紛れて、ぽつりと呟く声をエルセの耳は拾い上げた。顔を横に向ける。隣で同じように揺られているターキィは、まっすぐと前を見据えていた。
どこへ、とあえて示されなくても、ターキィの指す場所はわかっていた。あえて明言しないのは、彼なりの優しさなのだろう。その優しさが今はただただ厭わしいものだとは、知りもせずに。
「……うん。でも、家族は参加できないって追い返された」
最後の別れすら許されなかった。そのことに憤ることすら疲れてしまった。何に触れても崩れ落ちてしまいそうな弱った心を、放っておいてほしかった。建ち並ぶ家の窓に煌々と灯る団欒の色が、エルセの目に沁みる。
「そうか」
これ以上ないほどに簡素な返事だった。そこから先は、二人とも無言だった。
夜の町を縫うようにして、馬車は音を立てながら進んでいく。
「はいよ、お疲れさん」
馬の嘶きが、ぼんやりとしていたエルセの意識をやにわに貫いた。馬車がひときわ大きく揺れて止まる。御者のマッカヤは軽々しく馬車から飛び降りると、荷台に積んでいた櫃を石畳に下ろし始める。
「ありがとう、マッカヤさん」
次いでターキィも馬車から降りて、マッカヤを手伝い始める。いきなり現実をつきつけられたエルセは、窓から顔を出してあたりを見渡した。町中とはうってかわって、静まりかえった風景は夜の色に染められていた。まばらに建つ家々の隙間を埋めるように、道の両脇には街路樹が植えられている。木の息づかいすら聞こえてきそうなひっそりとした空間に、せわしなく荷物を運び出す音だけが響く。櫃を抱えた二人は、ちょうど窓の正面に見える二階建ての家へと吸い込まれていった。ターキィの家だ。エルセがこれから暮らすことになる家。窓にはカーテンが引かれているが、隙間から明かりが漏れ出している。
手前に広がる芝生。やけに幅のある玄関。その両側に取りつけられた外灯が、ぼんやりと光を放っている。背後でざわめく木々の黒い輪郭は、獲物を捕らえる機会を今か今かと待っている巨大な獣のようにも見えた。幼なじみではあるものの、いつもターキィが来るばかりで、エルセから家を訪ねたことはなかった。初めて目の当たりにするたたずまいに、エルセの胸は不安でいっぱいになった。今日からはここが自分の帰る場所になるのだと理解はしていても、実感がまったく伴わない。
「エルセー、早く来いよー」
いつまでも馬車にこもっているエルセを、ターキィが呼びつけた。声のした方を見ると、荷物の運び入れを終えた二人がそろって馬車へと歩いてくるところだった。
エルセは観念したように、地面へと降り立った。
「では、私はこれで」
「うん、ありがとう。助かった」
ここに来るときも身につけていたつばの広い帽子をかぶると、マッカヤは馬車に乗り込んだ。ゆっくりと動き出す馬車を、ターキィは勢いよく手を振って送り出す。明かりのない、一歩先すら見通すことが困難な道に馬車が吸い込まれていくさまを、エルセは身動きひとつせずに追った。やがて轍の音が闇の向こうに消えてしまうと、代わりにターキィの間延びしたあくびが静寂に響きわたった。
「ただいま!」
玄関を開けた途端、橙色の光があふれ出してきた。エルセは思わず目を細める。瞳の奥に走る、痛みにも似た感覚。ターキィはしかし平気な様子で、脱いだ靴を放り出して廊下を駆けていった。そっと目を開けると、足下にはさきほど脱ぎ捨てられたターキィの靴の横に、大きめの革靴、そしてまだ大地を踏みしめたことがないような純白のパンプスが整列していた。壁に沿って綺麗に並べたてられた靴は、それ以上入り込む余地などないと告げているようだ。今すぐこの場から立ち去ってしまいたい。そんな衝動にすら駆られた。
やがて廊下の奥から騒々しい足音が近づいてきて、その衝動は実行に移される前にどこかへ追いやられた。ターキィが二人の男女を引き連れて、ぽつんと立ちほうけるエルセのもとへ戻ってきたのだ。
「エルセ、何つっ立ってんだよ。入れよ」
不満げに唇を尖らせるターキィの様子に、背後の二人は顔を見合わせた。父親のケルディスと母親のトリエンデだ。エルセの両親がまだ生きていた頃、ターキィとは家族ぐるみで親交があった。以前であれば、彼らに出会うたびにところかまわず飛びついていって、その柔らかい髪に寵愛を受けていた。だが、今日はそうしなかった。できるはずがなかった。そればかりか、仲睦まじい親子のやりとりが妙に白々しく映って、寒気すら覚える。
「あんたがどたばたしてエルセを置いてきぼりにしたんじゃない、ターキィ」
「そ、そんなことないぞ。なぁエルセ」
ここは十六年間過ごした我が家ではない。目の前にいるのは自分の両親でも、兄でもない。トリエンデのたしなめる声も、ターキィの取り繕う言葉も、耳に入る頃にはどこか芝居がかった響きを帯びていた。綺麗に飾りたてられた玄関も、奥へと続く真新しい廊下も、目に映る何もかもが舞台の上の作り物のようだった。エルセはそれを遠くから眺める観客でしかないのだ。
そんなつもりなどなかったのに、冷たい滴が頬を伝っていった。誰にもさらけ出したくなどなかったのに。それなのに、ひとたび堰を切って流れ出した感情は、もう止められなかった。制御のきかぬ激流にとうとう耐えることができなくなって、エルセは両手で顔を覆ってしゃがみこんだ。
言葉にならない不格好な嗚咽が、ひとりでに喉をくぐって飛び出していく。ふと、頭のてっぺんに温もりを感じた。顔を覆っていた手をどけると、目の前にはトリエンデの微笑みがあった。触れてほしくなどない。それなのに、今すぐに水底から拾い上げてほしい。相反する二つの思いが同時に生まれて、せめぎ合いを始める。
「お、お世話に、なります」
結局、エルセの意地はいともたやすく負けた。涙声の挨拶を絞り出すと、そのまますべてを包みこんでくれる優しい温もりへと身を任せた。
ひとしきり嗚咽を身体の中から出し切って、誰のものともわからない温かい腕に抱かれて部屋に連れられた後のことは覚えていなかった。気づいたらエルセは、ふかふかの寝台の上で羽のような布団にくるまりながら、窓から射し込む柔らかな朝日を浴びていた。
昨夜、外を歩いたときの印象とはうってかわって、窓の外に広がるのはひたすらに平和で穏やかな風景だった。どこかで小鳥のさえずりが聞こえる。台所からただよう香ばしいパンの匂いが、空腹の身体を刺激した。
受け入れなければならないのだ。兄が、兄だけが欠けた世界を。たとえどれだけ虚構めいていても、この景色と匂い、そして自らに差し伸べられる温かい手は紛れもない現実なのだから。
エルセの脳裏に、昨晩の醜態がまざまざとよみがえった。そうだ、謝らなければいけない。厄介になるのはエルセの方なのだ。これ以上、居場所を失うわけにはいかなかった。
エルセは重い腰をあげて部屋を出た。その後ろ姿をなめ回すように見つめる一つの黒い影の存在になど、気づくはずもなく。