眠りの白に導かれ | プロローグ「月の下で」
戦場は血の海だった。夜の闇の中で視界を助けるのは弱々しい月光のみであったが、それでも赤黒く染まった水溜まりが大地を覆い尽くしていることはわかった。傍らには、累々たるエレンシュラ兵の物言わぬ死屍。吐き気を催すような惨状だった。
今が夜でよかった。こみ上げてくるものを必死にこらえながら、彼は茂みから這い出た。白日の下であったなら、きっと正気を保っていられない。今朝、食事とともにした仲間たち。張りつめた雰囲気の中でときおり交わしたたわいない会話と、彼に見せてくれた笑顔がふとよみがえる。そんな仲間たちを見捨てたのだ。剣戟が激しく打ち鳴らされる中、勇ましい鬨の声をかいくぐって森の中へと身を滑り込ませた。心を握りつぶされるような悲痛な呻き声の数々も、すべて聞いた。敵を屠り尽くしたトロイラ兵の、咆哮にも似たかちどきも。ぎらぎらと感情にまみれたトロイラ兵が踊り狂うように戦地を去った後は、動く者の姿はもうどこにも見当たらなかった。血の海のほとりにひとり立つ彼のことを、今となっては謗る者すらいない。
仲間を裏切ったのだと、あるいは戦に恐れをなして逃げ出したのだと、誰が見てもそう言うだろう。否定をするつもりはなかった。どれだけ理由を重ねたところで、所詮は後付けだ。彼がひとり生き延びて、こうして立っているという事実だけは変わらないのだ。
だが、それでも構わなかった。そんなちっぽけな誤解を解くことよりも遥かに大切なものが、彼を待っているのだから。
彼は震える手で、身につけていた鎧を脱いだ。赤黒い海の中へと足を踏み入れる。立ちこめる匂いに何度もむせ返りながら、彼は積み重なって倒れている死屍の傍らにそっと鎧を捨てた。足元に横たわる兵士の名がふいに脳裏をよぎる。それだけで、彼の膝は今にも砕け散ってしまいそうだった。生まれくるありとあらゆる感情を決死の思いで殺しながら、彼はほとりへと引き返した。どす黒く染まった靴をも脱ぎ捨てると、今度は乱暴に投げ入れる。
耐えることができたのはそこまでだった。
逃げるようにその場を立ち去ると、彼は森の中を必死に駆けた。これまで見たものも聞いたこともすべて忘れてしまおうとするかのように、ただひたすらに走った。彼にしか救い出せない、彼にしか守れない、大切な大切なものの待つ場所へ。