Someone's Stories 365 | 001 無重力の年頃
目が合った。今日でもう五回目だ。目が合うということは、向こうもこちらを見ているということだ。ただの同級生で、何の感情もない女のことを、果たして人は何回も見たりするだろうか?
そこまで考えて、またしても自分の思考が暴走しかけていることに気づく。なんとなく気まずくなってひとつ咳払いをすると、書きかけの小説をカバンにしまって席を立った。この仕草も見られているかもしれない、などと意識すると、何気ない所作もいつもよりわざとらしくなってしまう。だめだめ、絶対にそんなことないんだから。
生徒会室を出ると私は女子トイレに向かった。別にもよおしていたわけではないが、なんとなく生徒会室のドアを開けて外に出る、ということをしたくなったのだ。外に出たのはいいものの、他に行き場もないので、自然とトイレに足が向かったわけである。特に用もないが、ついでに手を洗おうと、洗面台の前に立った。
手を洗い、蛇口を閉めると、ハンカチを取り出して手を拭く。正面の鏡には私の姿が映っている。何ともなしに、私はわずかに首を傾げて、もっとも「見目麗しくなる」角度で固定する。ハンカチを拭く手は止まっていた。髪を耳にかけてみたり、下ろしてみたり、前髪をかき上げてみたりする。
やっぱり、結構いけてるよな、私。
廊下から数人の女子の話し声が聞こえた。こちらに近づいてくる。私は慌てて髪を元に戻すと、さも今しがた用を足したところですけど、と言うようにそそくさとトイレを出た。
生徒会室に戻ると、先ほどからメンバーは変わっていない。生徒会長の高崎希美、代理書記の伊藤悠子、そして生徒会で唯一の男子、書記の高村光斗だ。ちなみに私は会計と施設長を兼ねる、百合ヶ原砂奈恵である。
「てかさー、謎に自分に自信持ってる女とかウザいよね?」
奥の方で希美と悠子が、何かを切り貼りしながら女子トークをしている。今度の文化祭に向けた掲示物か何かだろう。会計の私はというと、基本的には暇である。だから別に帰っていいのだが、なんとなく帰るのが惜しくて、話の輪に入るわけでもないのに隅っこに居座っている。
「わかるー、いるよね、トイレでいつまでも鏡見てる子。マジあれ何の意味もないから」
「C組の笠松さんぐらい可愛くないとねー。でも可愛い子ほどあんまり見た目気にしないよね」
「わかるー」
二人の女子トークがなぜか胸に突き刺さる。別に私のことを言っているわけではない、と思う。だが、さっきのトイレでの仕草の後で、タイミングが良すぎる。私はなんとなくきまりが悪くなり、書きかけの小説に戻る気もなくなって、カバンから本を取り出して読むフリをした。
帰ればいいのに。何やってるんだろう。
何をやっているのか――と聞かれれば、それはもう実にくだらない理由でしかなくて、本日五回も目が合った高村光斗の存在を気にしているのだった。高村くんは自分の作業が終わっても女子トークには加わることなく、その辺の書類をまとめたり、備品を片付けたりしながら、所在なさげであった。つまり、高村くんも帰れるのに帰らない、私と同じである。だが、高村くんも同じように私のことを気にしている――と結論づけることはできない。高村光斗と伊藤悠子はカップルだった。
本に目を落としながら視界の端で高村くんの動きを観察する。そんなことをしているものだから、書かれている文字は一文字も頭に入ってこなく、当然いつまでも同じページを開いたままだ。読んでいないことがバレてしまう。私は高村くんの姿をいったん視界から追い出すと、文字に集中しようとした。
「何の本?」
突然話しかけられて、ちょうど意識を文字に向けかけていた私は、ただ純粋に慌てふためいた。
「『日本経済の歴史』…? なんでそんな難しそうな本読んでんの。面白いの?」
顔が熱い。高村くんの顔を直視できない。
「まあ」
「ふーん。てかそろそろ帰りません?」
「え、でもまだ伊藤さんが」
希美と悠子は相変わらず女子トークで盛り上がっている。私たちのことになど目もくれていない。
「だってあれしばらく終わらなさそうだし」
あれ、が切り貼り作業のことを指しているのか、女子トークを指しているのかはわからなかったが、私はちょうど体の良い理由ができたことにほくそ笑み、本を閉じた。
「じゃあ、お疲れさまです」
私がそう声をかけると、希美と悠子はようやく顔を上げて私たちの方を見た。
「あ、お疲れ-」
「またねー」
伊藤悠子は自分の彼氏が他の女と二人きりで帰るというのに、まるで意に介していない様子だった。おいおい。そんなんじゃ私が取っちゃうぞ。なんちゃって。
生徒会室のドアを閉じると、また始まった女子トークがドア越しに聞こえてきた。
駅までの道は人がごった返していて騒々しい。
「伊藤さんって結構心広い感じ?」
帰り際の、私たちのことなど何とも思っていない悠子の様子が気になって尋ねてみた。
「何が?」
「いやだって、うちら二人で帰っても別に何も言わなかったっていうか」
「あー、まあ、それはね」
高村くんが苦笑いした。全く答えになっていなかったが、深く追求するのも変な気がして、私は黙った。
「でもなー、生徒会入ってからの方が一緒に帰れなくなったんだよな」
高村くんがポツリとこぼした。その寂しそうな口調に、なぜだか心臓がギュッとした。この人はちゃんと伊藤悠子を好きなんだ、という当然の事実を改めて突きつけられた気がした。では、五回も目が合ったのは何だったんだろう? 付き合いの悪い悠子に嫌気がさして、もっと一緒にいてくれる女を探している……というわけではないのか。
「まあ、色々忙しいからねー」
その後は適当な世間話をして別れた。
風呂上がり、自室でドライヤーをかけながら、鏡を見る。頬は上気しており、唇もいつもより血色がいい。濡れて束になった髪がつやつやと光っている。思わず唇をわずかに開け、上目遣いになる。
断言できる。伊藤悠子より、絶対に可愛い。
生徒会室での女子トークを思い出す。別に私のことを言われていたわけではない。が、人の容姿をけなせるほど可愛いわけでもない悠子の、あのどこからくるのかわからない自信に無性に腹が立った。
そんな悠子と付き合っている高村くんも。
あの悪口ばかりの女子トークを聞いて、高村くんは何も思わないのだろうか。いや、高村くんも内心苦々しく思っているに違いない。男子はああいう話が嫌いだし、話の輪に入っていかなかったことが何よりもはっきりと物語っている。その点、私は人の悪口なんて言わず、隅で奥ゆかしく『日本経済の歴史』なんて難しそうな本を読んでいる。
全ては、知り合ったタイミングでしかないのではないか、と思い当たる。もし高村くんが伊藤悠子と知り合う前に私と出会っていたら、私と付き合っていたに決まっている。今頃高村くんは、悠子と付き合ったことを後悔しているのではないか、と。
「ああっ、でも……」
だとすると、どうしよう。どうやって高村くんの思いを断ればいいの。私には、ちゃんとクラスに好きな人がいるのに……。
棚にしまった『高校世界史』の教科書を取り出し、中に挟んである写真を取り出す。水原透とその友人が中央でピースサインを作っている。校外学習に行ったときの写真だ。貼り出されたサンプルの中から欲しい写真の番号を記入する方式で、私はひそかに水原くんの写真を購入していた。後日、先生から配られた写真の中に、自分の写真に混じって何の関係もない水原透の写真が挟まれているのを見たときは、誰もいない自室だというのに恥ずかしすぎて机に突っ伏してしまった。
もしも、水原くんと高村くんの両方から一度に告白されたら……?
もちろん、水原くんを選ぶに決まっている。でも高村くんの寂しそうな声が忘れられない。あれは、伊藤悠子への不満と見せかけた私へのアピールだったのではないか? そう考えると納得がいく。本当に伊藤悠子と一緒に帰りたいなら、わざわざ私と帰ろうとするはずがない。ああ、どうして人は一度に一人の相手としか付き合ってはいけないのだろう? 二人から一人を選ばなければならないなんて、身を切るようにつらい。
「……はあ、馬鹿馬鹿しい」
わかっている。全ては私の頭の中で繰り広げられている妄想にすぎない。そんなことは承知で、ただ万が一の可能性を楽しんでいるだけだ。だけど……。もし本当にそうだったら? いや、そんなことは絶対にない。でも……。
いまいち暴走にブレーキをかけられないまま、夜が更けていく。
久しぶりに部活に行くことにした。
私は生徒会に所属しているから、部活には出たり出なかったりだ。顧問の先生や部長も、それなら仕方ないと了承している。幽霊になりかけの状態でどうして所属したままでいるかというと、テニスコートからなら水原くんが部活をしている姿がよく見えるからだ。
ラケットを持ってテニスコートに行くと、もう部員たちは整列しており、出欠確認を兼ねたミーティングをしている最中だった。大会が近いためか、心なしか気が張りつめている。
部長が前に立って演説している。私はさりげなく近づいていって、最後列に加わった。
「できる限り頑張る、なんて言ってるようではダメだ。そうやって自分の限界を設定する奴に成長はない。できなくても、やる。そういう心構えでいてほしい」
ミーティングが解散し、各自がウォーミングアップに入った。部長がまっすぐに私のところに向かってきた。
「百合原ァ!」
「何ですか。百合ヶ原ですが」
この部長はいつまでも私の名前を覚えない。
「大会が近いっていうのに、こんなときぐらい遅刻せずに来れないの?」
「私、大会に出ませんし」
「出ないからって遅刻していいわけじゃないでしょう! そういう態度が一人でもいるとみんなの規律が乱れるでしょうが!」
とてつもない正論である。あまりにも部長の言うことが正しすぎて、私は反発を覚えずにはいられなかった。生徒会があるから休みや遅刻も理解してくれていると思っていたのに。遅刻がダメなら、部活を追放してくれれば従うのに。
「じゃあ辞めればいいんですか」
部長の正論から自分を守るために、思わず言葉がついて出た。立ち去ろうとしていた部長が、ものすごい形相で私を振り返った。
「はあ?」
「それに、さっきの話ですけど、できる限り頑張るがダメな理由がわかりません。できないと思っていたことができたなら、それはその人にとってはできることなのだから、つまりできる限りやる、ということになりますよね?」
「……」
部長は今度こそ無言で立ち去っていった。
気を取り直して、ウォーミングアップのランニングに加わる。ふとサッカーゴールの方を見ると、水原くんがシュートの練習をしていた。真剣な表情で、汗で髪が額に張りついているのも意に介さず、ひたすら練習をしている。ああ、やっぱり水原くんが好きだ。私はしばらく見とれていた。高村くんに同時に言い寄られたとしても、絶対に水原くんを選ぶ。断言できる。
いつの間にか、足が止まっていたらしかった。
「百合原ァ!」
百合ヶ原ですけどね、と思いながら水原くんから目を離し、ランニングを再開した。
暇であるという以上に、気まずい。話すことがない。そもそも何かを話さなければならないのか。
今日は打ち合わせがあるから、と言われて生徒会室に来たのはいいものの、部屋の中には私と伊藤悠子の二人しかいない。伊藤悠子とはクラスも違い、同じ生徒会だからといって友達というわけでもなく、話題など何もなかった。それは相手も同じようで、悠子は私の存在など見えていないかのように、アルバムのようなものをぱらぱらと眺めている。
誰でもいいから、来てほしい。とはいっても、高村くんに来られても余計気まずくなるだけだ。最近、やはり水原くんが好きだという気持ちを強く自覚したばかりなのに、どんな顔をして高村くんに会えばいいのだろう。高村くんだけは来ないで、と祈った。
「ごめーん、遅れた。……って、まだこれだけ?」
沈黙を破って入ってきたのは生徒会長の高崎希美だった。
「そう、まだみんな来てないよ。あっ、そういえば持ってきたよ、卒アル」
「おっ、マジで? 見せて見せて」
希美が身を乗り出して、悠子が持っているアルバムをのぞき込んだ。どうやら悠子の中学の卒業アルバムらしい。私の知らないところで、いつの間にかアルバムを見せる話になっていたようだ。
「えーっ、この子めっちゃ可愛い」
「でしょー、この子ずっとモテモテだったよ」
いつもなら聞き流して小説を書き始めるか、本を読み始めるところだが、なんとなくその可愛いと言われている生徒の顔が気になった。私はアルバムをのぞき込んだ。
衝撃を受けた。髪をお下げにし、写真に慣れていなさそうなはにかんだ笑顔を見せるその女生徒は、有り体にいえば全然可愛くなかった。別の子を指しているのかと思ったが、希美の指は確かにその女性との写真に向いている。おかしい。この子が可愛いというなら、私は絶世の美女だ。
「私、男だったら絶対告ってるもん」
「わかるー」
「わかんないわー。全然可愛くないじゃん、その人」
希美と悠子が同時にこちらを向いて初めて、つい口にしてしまったことに気づいた。これまで女子トークに一切加わってこなかった私が急に話に割って入ったこと、そしていきなり二人の意見を否定するようなことを言ったことで、怪訝に思われるのは当然だった。
「んー、そうかな」
「てか、百合ヶ原さんに言われてもね」
「そうそう、百合ヶ原さんよりは可愛げがあるよね」
可愛げ? 可愛げって何なの? いくら可愛げがあっても、最終的には顔でしょう。
黙っていればいいのに、ここまで言われたら引き下がれない。
「可愛げって何? 可愛げがあっても実際に可愛くないんじゃ意味ないでしょ」
希美と悠子は顔を見合わせる。
「そうやって屁理屈を言ってばかりの人は、いくら顔が可愛かったとしても、可愛くないんだよ」
「別に百合ヶ原さん顔が可愛いわけでもないし」
「いえてる」
「男だったら絶対告らないよね」
その言葉に、体中の血が煮えたぎるのを感じた。
何も知らない癖に。高村くんが一緒に帰りたがっていたことも。人の悪口ばかり言って、その場にいた高村くんがどう思うのか、想像もしない癖に。
男だったら絶対に告白しない――何より、その言葉が、高村くんと水原くんへの侮辱のように感じた。
もう耐えられない。生徒会室に荷物が置いてあることも忘れ、一目散にその場から逃げた。何でなの? どうして? 私のどこがいけないの? 悪口に同調することもない。静かに隅っこで本を読んでいるだけ。一緒に帰ってあげられる。それなのに――どうして高村くんはそれでも伊藤悠子がいいの? どうして水原くんは私を見てくれないの? それとも、うぬぼれてた? ううん、確かに妄想はひどいけど、だからといってあんなに否定されるほど、私に魅力がないとは思えない。
階段を駆け下りて昇降口まで来ると、空は茜色に染まっており、グラウンドから部活のかけ声が聞こえている。私は行き場をなくして、壁際にへたり込んでしまった。
「お、百合原ァ!」
にわかに廊下の奥からテニス部の部長が現れ、私に気づいた。なんというタイミングの悪さだろうか。こんなところを部長に見られたくなかった。
部長は私の隣で立ち止まった。
「ちょうどよかった。あの後よく顧問の先生とも話し合ったんだがな、やっぱり百合原は退部した方が――」
退部。退部? 部活を辞めろと、そう言っているのだろうか。また私は拒絶される。どうして? 私の何が悪いっていうの?
ぐるぐると思考が渦巻き、いつの間にか涙がこぼれていた。
「ちょっと、大丈夫?」
部長がうろたえたように私の顔をのぞき込もうとする。私はしかしそんな部長をきっとにらみ返す。涙を流しながらにらんだところで滑稽なだけだ。だが、そうせずにはいられなかった。
「……私の何が悪いっていうんですか」
部長はきょとんとした。
「え? 言ってあげようか?」
「……」
そのあっさりとした物言いに今度は私が面食らった。
「平気で遅刻して謝罪もない、先輩に口答えする、練習も真面目にやらない。生徒会だかなんだか知らないけど、そっちを真面目にやってるなら私らだってうるさく言わないよ。でも聞くところによると、生徒会室にいても暇そうにしているだけで、他の人の仕事を手伝ったりしないらしいじゃない。何が悪いのかって? 逆に百合原が何をどう頑張っているのか説明してもらいたいよ。どれも全部中途半端でさ」
どこからどう見ても完璧な、混じりけのない正論である。私はうなだれた。いつものように、自分を守るために何か言わなければと思うが、頭には何も浮かばない。ただ、その通りだと思うばかりである。
「まあ、頑張る気になったらまた入部届を出しなさいよ。じゃ、お疲れ」
部長は靴を履き替え、外に出て行った。
私はしばらく座り込んだまま、茜色の空が藍色に染まっていくのを眺めていた。
こんな姿、高村くん、あるいは水原くんに見られなくてよかった――この期におよんでまだそんな気持ちが意識に上ってきて、そんな自分に呆れた。
そういえば――。
いつだったか、一緒に帰ったときの高村くんのセリフを思い出す。私と高村くんが一緒に帰ることについて、伊藤悠子は何も言わないのか? と聞いたときだ。
「あー、まあ、それはね」
あの苦笑いは、つまりそういうことだったのか。伊藤悠子は初めから私のことをライバル視などしていない。取るに足らない存在だから、何の心配もしていないということか。
そしてそのことを、高村くんも暗黙の了解として共有している――。
わかっていた。全ては私の妄想で、私はただ二人の男子から求められる状況を勝手に想像して楽しんでいるだけのはずだった。わかっていたはずなのに、何がこんなにつらいんだろう。何がこんなに悲しいんだろう。
いつの間にか、空の光は完全に消え外は闇に包まれていた。
荷物がまだ生徒会室だ、と気づいて、私は立ち上がった。誰もいないしんとした校内を力なく歩く。階段を上りきると、生徒会室にはまだ明かりがついており、中からくぐもった声が聞こえてくる。
私は勇気を出してドアを開けた。
(2026.10.17)
*** あとがき ***
高校一年生のときに書いた作品が発掘されて、せっかくなので登場人物の名前と話の流れは維持したままリライトしてみました。