旅人たちの紡歌

空の揺動 | 終章


 ――あぁ、確かに愛していたさ。
 もう一度、確かめるように反芻する。幾度となく繰り返し続ける言葉が、そのたびに私の胸をどうしようもなく締め付ける。
 ――それならば……。
 ぱたぱた、と足音がして、再び誰かが通っていった。ふと、扉の前で縮こまって座る両親と、その後ろからずかずかと入ってくる高彦の姿が見えた気がした。
 ああやってまくし立てたが、高彦を恨んでいるわけではないのは本当だ。たいした役にも立てない私を五年間も屋敷に置いてくれた。そのこと自体は言い表せないくらいに感謝をしている。ただ……。
 私がふらりと散歩などに出なければ。事故になど遭わなければ。きっと私は実業学校を卒業して、実家を継いだだろう。高彦という人物などとは縁もゆかりもない生活で、素朴で身の丈に合った嫁を娶り、慎ましくも幸福な家庭を築いただろう。すべては、彼女と出会ってしまったがゆえ。出会わなければ、いっそ出会わなければこんなことには……。
 とうの昔に消滅したそんな人生を思い描きながら、私は疼く胸を掻きむしった。だが、出会ってしまった。この事実は変えられないのだ。やり直すことなどできないのだ。仮にやり直すことができたとしても、彼女のいない人生など味気なくておもしろくない。彼女と過ごした時間も、彼女の温もりも、手も、髪も、今にも吸い込まれてしまいそうな眼も、何もかもがこんなにも愛おしいのだ。それらを知ることがないまま朽ち果てる人生など、考えたくもない。
 ――愛して、いたのだ。彼女を。
 曇天に支配された薄暗い景色を見やる。あの厚い雲の先に彼女はいるのだろうか。暗闇の中で、小動物のように身体を縮こまらせているのだろうか。怯えた眼をして、私のことを待っているのだろうか。もう何もわからなかった。どうしたらよかったのか、これからどうすればいいのか。
 ただ、これだけはわかっていた。
 ――確かに愛していたのだ。彼女を。
 暗雲の向こうを見透かすように、私はじっと眼を凝らした。
 ――だから……。
 開け放した窓から吹き込む生温い風が私の頬を叩く。それに臆することもなく、私はただ一点だけを凝視していた。