空の揺動 | 04
早朝に香津を帰すと、正己は布団に横になった。一夜限りの夢の終わり、最後に香津の手を離したときのあの名残惜しさは、思い返すほどに正己の胸を深く抉る。が、今はそれさえも甘美な余韻として残っている。
いつだったか夢に見た、高彦の姿が脳裏に浮かぶ。正己は思わず口元がにやけた。なぜだか妙に心が静かだ。夢の続きを願いながら、正己の意識は眠りの彼方へ飛び立った。
正己が再びうつつに降り立ったとき、途方もない飢えを感じた。カーテンを開けるともう日は高く昇っていて、陽光の下にさらされたダリアがきらきらと色めく。庭の端では、三恵が上機嫌そうに箒をはたいている。何か食べなければ、と正己は癒えきらない疲れと眠気を振り払って母屋へ向かった。
母屋へ入った瞬間、空気がぴんと張りつめているのを察知した。客間の襖がぴたりと閉じられている。原因は、そこから漏れてくる話し声だろう。高彦の声と、もう一人は高齢の男性。どこかで聞いたことがある、と記憶を辿っていくと、導き出された答えに正己は戦慄した。香津の父親である、あの男性。もしかして、式の打ち合わせなのだろうか。正己はそっと客間の前まで進み、襖に耳を押しつけた。そして、自分の予想以上に話が悪い方へ向かっていることを知った。
「……とにかく、婚前の娘を許可もなく家に泊めるような男に娘はやれん」
「ですから、私は昨日の朝から一日、家を空けていました。事務所の者に聞いてもらえばわかります」
「ええい、黙れ! 実際に娘が言ってるんだぞ、津川の屋敷へ行ったと。なぁ香津、そうなんだろう?」
答えはなかった。が、どうやら香津もそこにいるようだ。正己は客間から離れて頭を抱えた。
そう、香津は高彦と会いに足繁くここへ通っているのだ。逆を言うと、高彦がいなければ用はないはずだ。若い娘が一晩家を空けるなど尋常なことではない。親が不審に思って訪ねてくるのも当然だった。高彦のいない解放感だけで突き進んで、その日に泊めてしまったのは軽率だった。そもそも、離れに正己以外の人が立ち入ることなどめったにないのだから、あえて不在である必要などなかったのだ。
正己の足はふらふらと台所へ向かった。流し場に背をもたれかけて座り込む。
高彦も馬鹿ではない。じきに誰の仕業なのか思い当たるだろう。そうしたら香津はなんと答えるのだろうか。正直に答えるのだろうか。だが、どちらにしても正己の居場所がなくなるのは確実だった。正己はただの居候だ。高彦にとって利害関係も何もない。そんな正己が自分の婚約者に横恋慕していると知れば、これ以上屋敷に置いておくわけにはいかないだろう。
喉の奥から、声にもならない呻き声が漏れる。
屋敷を追い出されたら、正己は生きる術を失う。だが、それ以上に香津と会えなくなることの方が大きかった。高彦の妻となり、正己との時間を白紙に戻してその役割をまっとうするのか、あるいは今回の件で婚約を解消されてしまうのか。どちらの道が拓かれようとも、香津が心から幸せになれるときなど永遠にこない気がした。脳裏に香津の泣き顔が浮かんで、正己は胸が締め付けられた。
それならば――。
正己にはもう一つの新しい道があった。俯いていた顔をあげて、深呼吸をする。瞳には仄暗い決意の炎が宿っていた。香津さえいてくれるならば、何を失っても構わない。その代わりに、必ず香津を幸せに導いてみせる。そんな決意だった。
立ち上がった正己は流し場に片付けられている包丁の中から小振りのものを選び出して、手に取った。ズボンの背中側に慎重に挟み込んで固定すると、ゆっくりと客間へ戻った。依然として張りつめた話し声が聞こえる。息を殺して襖に手をかけると、一気に引いた。
部屋にいた三人が同時に正己の方を見た。左奥に高彦、机を挟んだ向かいに香津の父親、そしてその手前に香津が座っている。都合がいい。正己は彼らとちょうど斜向かいになるように、片膝をついて座った。
「正己くん……!」
「だ、誰なんだね、君は」
「高彦さん」
狼狽する香津の父親を差し置いて、正己は高彦に向き合った。
「彼女は昨晩、ずっと私と一緒にいました」
「……」
高彦は険しい顔つきのまま、表情を変えようとしない。やはり、薄々感づいていたのだろうか。視線だけをちらりと香津の方へ向けるが、香津はずっと俯いている。
「私と彼女は愛し合っています」
「なっ……! 何を言っているんだね、君は」
「長谷川さん」
立ち上がりかけた香津の父親を、高彦が制す。高彦は不気味なくらいに落ち着いていた。正己の手に汗が滲む。
「正己くん、君は……」
「あなたは彼女と会うことをずっと避けていました。彼女が訪ねてくる日に限って家を留守にする。そのことで彼女がどれだけ悩んでいたのか、あなたは知っていますか? 確かに私の行為は許されることではありません。が、そう仕向けたのはあなたでもあるんです」
一息に言い終えると、正己は深く息を吸い込んだ。正己の話を聞いて、怒りの矛先は高彦へ向かったらしい。
「津川くん、今の話は本当か? 私は君に大事な娘を預けたつもりでいたのに、君は、よりによって君が、そんな……」
何が気に入らないんだね、と香津の父親は机を叩きつけた。高彦はそれでも動じることなく、そっと眼を伏せた。しばらく考え込んだのち、瞼を開いて穏やかに話し出す。
「申し訳ありません」
「津川くん」
「家を空けていた日が続いたのは本当です。が、彼女を避けているつもりはありません。断じてありませんでした」
香津は依然として俯いたままだ。肩が僅かに震えている。
「そもそも彼はこの家の使用人――いえ、正確には使用人ですらないのですが。彼には私の予定をすべて伝えており、もしも彼女が訪ねてきたらそれをそのまま彼女に伝えるように言いつけておりました」
高彦の口からすらすらと滑り出る嘘に、正己は眼を見開いた。そんな役目を負った覚えはない。高彦の予定など、三恵ですら把握していなかったというのに。
「それは嘘です、高彦さんは」
「彼が仕事を怠ったあげく、立場を利用して彼女を奪おうとしていたとは――。私の監督責任です。申し訳ありませんでした。ここまでことを大きくした彼を据え置いておくつもりはありません。今日以降、二度とこの屋敷、いえ私の土地に近寄らせないようにします。ですから長谷川さん、どうか――」
正己の中で何かがぱちんと弾けた。これまで背負っていたすべてのものが、音もなく消え去る。正己は右手を腰の後ろに回して、包丁の柄を掴んだ。素早く引き抜くと同時に、香津をぐいと引き寄せた。二、三歩下がって高彦たちから離れると、冷たく光る切っ先を香津の喉元にぴたりと当てる。香津の小さい悲鳴が聞こえた。
「きっ、貴様、香津に何をする気だ!」
僅かに震える叫び声が、客間を突き抜けて屋敷中に響いた。高彦もさすがにぎょっとした様子で、どんなときもきっと一文字に結んでいた唇が半開きになっている。
「高彦さん」
先ほどとなるべく口調を変えないよう努めたつもりだが、さすがに緊張を隠しきれなかった。だが、もう戻ることはできない。正己は雑念を振り払うように頭を左右に振った。
「高彦さん」
もう一度名前を呼ぶ。今度はしっかりとした口調だった。
「五年前のあの日、あなたは私からすべてを奪っていきました。今さらそのことを責めてはいませんし、これまで屋敷に置いていただいたことは感謝もしています。刃向かうつもりなどありませんでした。しかし、彼女に会って――、その考えは変わりました」
一瞬、言葉を切る。客間の二人は固唾を飲んで正己を見つめている。
「高彦さん。今度は私が奪う番です」
そう言い切るや否や、正己は持っていた包丁を放り投げた。からん、と床に落ちて乾いた音が響く。香津の腕を掴んで客間に背を向けると、まっしぐらに屋敷から逃げ出した。
義足の身だ。歩く分には不自由ないが、普通の人と同じように走れるわけではない。が、ここで捕まってしまったら本末転倒。悲鳴をあげる足にむち打って、香津の腕をしっかりと掴みながら山道を下る。たとえ義足が壊れてしまったとしても、離すわけにはいかない。正己はもう帰る場所を失った。この細い腕だけは、背後から規則的に聞こえてくるこの荒い息づかいだけは、離してなるものか。無くしてなるものか。汗をかく暇もないほどに、正己は疾駆した。
ふと、背後から香津の息づかい以外に聞こえてこないことに気がついて、正己は立ち止まった。振り返ると、辿ってきた山道が続いている。誰かが追いかけてくる気配はない。当然、高彦が追いかけてくるものだと予想していた正己は拍子抜けした。膝に手をついて息を整える。少し待ってみても、やはり誰かが現れる気配はない。張りつめていた糸がふっと緩む。と同時に、足に違和感を覚える。やはり、無理をしすぎたか。正己は庇うようにゆっくりと歩き出した。
「大丈夫ですか」
そっと香津に尋ねかける。正己に腕を掴まれたまま二、三歩後ろからついてくる香津を振り返ると、いつも綺麗に手入れされている髪が乱れている。
「……はい。わたくしは」
力ない声だった。当然のことだろう、と正己は察した。腕を掴むのをやめて、香津の手を握りしめると、汗でじわりと滲んでいた。
二人はそれ以上の会話もないまま、相変わらず二、三歩離れた位置関係を保ったまま、山道を抜けて町へ降り立った。
「……このまま二人でどこかへ逃げましょう」
「……」
答えはなかった。昼間だというのに見渡す限り、人気がない。足音に混じって、時折鳥の間延びした鳴き声が聞こえるのみ。まるで別世界へ迷い込んでしまったかのようだ。それでよかった。誰も触れられない場所へ逃れて、二人一緒に過ごすことができればそれでいいのだ。
屋敷は今どうなっているのだろうか、と疑問が正己の脳裏をよぎった。追いかけてこないということは諦めたのだろうか、と半ば願望混じりの解釈を繰り広げる。あるいは――。
そのまま思考が発展していきかけた頃、後ろで香津が立ち止まった。慌てて正己も立ち止まると、香津は俯き加減で、まるで何かに苛まれているかのように表情が歪んでいた。
「どうしましたか」
「……」
心配そうに声をかけても、香津はぴくりとも反応しない。疲れてしまったのだろうか。いたわろうと正己が一歩香津に近づくと、香津は一歩後ろに下がった。その動作に正己は訝しんだ。鼓動が速くなる。
「いったい、どうしたというのです」
「……ごめんなさい。わたくし、高彦さんのところへ戻ります」
「え?」
思いもよらなかった答えに正己は硬直する。戻る、と言ったのか。高彦のところへ。聞き間違いではないかと疑ったが、香津の表情がそうではないことを物語っている。
思わず、正己は香津の顔をのぞき込んだ。また一歩、香津は後退する。鼓動が音になって聞こえてきそうだった。
「本気ですか」
「……ごめんなさい」
すべては香津のためだった。香津のためにあんな芝居まで打って、帰る場所すら失って、それでも二人でいれば生きていけると思っていた。それなのに、高彦を選ぶというのか。高彦のために苦しんでいた香津を救ったという自負が正己にはあった。自分と過ごしたあの日々はすべて偽りだったとでもいうのか。
混乱する頭からちらちらと顔を覗かせるのは、決して香津に対する恨みではなかった。結局、自分は何もなすことができなかった。自分に対する怒りでもない。ただ、むなしさだけが正己の胸を満たした。
正己の手から力が抜ける。香津の手が、するりと滑り落ちた。
呆然と立ち尽くす正己の前で、香津は深く一礼した。身体を翻すと、そのまま元来た道を引き返していった。
愛する人の後ろ姿が徐々に小さくなっていくのを、正己はただ見つめていることしかできなかった。太陽がまぶしい。町はひっそりとしていて、平和な昼下がりであった。が、正己にはこの世界が急速に音を立てて崩れていくように思われた。
やがて香津の姿が完全に見えなくなったとき、この世のものとは思えない、おぞましい絶叫が町じゅうに響きわたった。
気がついたら、夕暮れが町を染め上げていた。
正己ははっと顔をあげた。いつの間にか、道ばたに座り込んで意識を失っていたようだ。
無意識のうちに隣に手を伸ばす。そこにあったのはひんやりとした石の感触だった。頭がはっきりするにつれて、嫌な記憶が舞い戻ってくる。正己は頭を抱えて呻き声をあげた。
しばらく悶え苦しんだ後、正己は立ち上がった。ふらりふらりとよろめく身体を建ち並ぶ民家に手をついて支えながら、正己は屋敷の方へ歩き出した。
今度こそ、うまくやってみせる。正己は唇を噛んだ。もう一度、香津を屋敷から連れ出す。そして、今度こそ、今度こそその手を離しはしない。目の前の道を睨みつけるような鋭い正己の瞳に、燃えるような夕日が映り込む。
町を抜けた。正己は意気込むように大きく息を吐いて、山道を登り始める。この先に香津が待っていると思うと、疲労など感じなかった。香津を追い求める気持ちが先走って、自然と身体が前のめりになる。勢い余って、体勢を崩してしまった。が、すぐに立ち上がると、機械のように規則的な歩調で突き進んでいく。
屋敷まであと曲がり角が二つというところだった。ふと耳慣れない音をとらえて、正己は足を止めた。雨のような音だが、少し違う。ばちばちと何かが弾ける音だ。耳を澄ますと、何人かの怒号らしきものも聞こえる。
唐突に嫌な予感がした。視線を上方に移すと、夕暮れの空を侵食するように、森の向こう側から黒い煙が吐き出している。それが何なのかを理解するよりも早く、正己は走り出した。
いったいこの世界は、これ以上まだ、自分から大切なものを奪い取っていこうとするのか――。何もかもを捨てた代わりに、ようやく得たものですら、手のひらからこぼれ落ちていってしまう。正己は呪った。高彦を。自分の運命を。最後の最後で反旗を翻した、香津ですらも。何もかもが正己に背を向けている気がした。
最後の曲がり角を過ぎると、猛火に包まれた屋敷を前方に認めた。耳に覆い被さるような轟音。生物が立ち入ることを拒絶しているかのような、峻烈な熱気が辺りに満ちている。だが、正己はその熱気さえも切り裂くように、到底現実とは思えない、いや、思いたくない光景に向かって駆けていった。
何人かの男が屋敷から離れたところでポンプに群がっている。地元の消防組だろう。ポンプの先から噴出される水は、視界いっぱいに広がる炎の手を前にしていかにも頼りなげに見えた。正己は走りながら素早く辺りを見渡した。香津は、いない。高彦も。屋敷を包み込む炎が、正己に向かって触手を伸ばす。まるで、捜し物はこの中だと言わんばかりに。
これ以上、奪い取られるわけにはいかない。正己の肌から痛覚が消えた。あの中で、香津が待っているのだから。
男たちをかき分ける。がむしゃらに飛び込んでいこうとすると、がしりと力強い腕で羽交い締めにされた。
「やめろ!」
猛火の轟音にも劣らない怒声が響いた。正己はじたばたと暴れて抵抗した。だが、男の力は正己では太刀打ちできないほど強かった。
消えていく。ここで過ごしたすべての時間が消えていく。香津と過ごした日々も、喜びも、苦しみも、すべて。正己はただ見ていることしかできなかった。
香津、と言ったのか、あるいは他の言葉だったのか、他人には聞き取ることすらできない叫び声をあげたのが最後、正己は気を失った。
焼け跡から、当主と思われる男性と使用人の女性、そして若い女性の遺体が見つかったという新聞記事を、正己は病院のベッドで読んだ。