空の揺動 | 03
暑さは和らぐどころかますます威力を増して、正己が目を覚ます頃には離れの部屋はすっかり茹であがっている。ぐっしょりと濡れた寝間着を着替えながら、正己は窓を開ける。吹き込む風は微かすぎて、暑さ解消の足しにもならない。毎年のことなのだが、夏の暑さと冬の寒さは耐え難いものがある。とはいえ、居候の身なので贅沢など言っていられない。
日課の家事をこなしながら、茶の間をちらりと見やる。高彦は何も知らない様子で文机に向かって何かをしている。今日は事務所へ出かけないのだろうか。香津の来訪を避けるために事務所へ出かける高彦の行動を許せない反面、正己の中にいるもう一人の自分が期待もしているのであった。
「正己くん」
そんなことを考えていたらやにわに名前を呼ばれ、正己はどきりとした。手を止めて茶の間へ向かうと、高彦から急須を渡された。
「お茶を淹れてきてくれないか」
「はい」
正己は急須を受け取ると、未だに高鳴る胸の鼓動を抑えつつ台所へ向かった。
あの日――香津と秘密の口づけを交わしたあの日以来、二人はたびたび逢瀬を重ねていた。といっても、高彦のいない日だけだ。三恵から高彦の不在を知らされた後、香津は帰るふうを装ってこっそり離れにやってくる。三恵も離れにまではやってこないが庭の手入れをしにくることがあるので、庭に面したカーテンを引いた薄暗い部屋で、話す声も自然と密やかになる。夏の暑さとも違う熱された時間をひとしきり過ごした後、高彦の帰宅までに香津を帰さなければならない。この瞬間の身を引きちぎられるような心の痛みを、香津も同じく感じているのであろう、と正己は自分勝手に察する。
高彦がいるときに香津が訪ねてくることもある。そんなときは仕方がないので他人行儀な挨拶を済ませ、何でもないようにそのまま離れに引きこもる。同じようにカーテンを引き、二人が庭へやってくると窓の隙間からそっと様子を伺う。いくら香津に目線を送っても、こちらを振り向くことはない。端から見たら仲睦まじい男女の姿に、正己はやきもきしながらも耐えるのだ。
お茶を淹れた急須と湯呑みを持参して茶の間に戻ると、妙に高彦がこちらをじっと見つめていた。心の中を見透かすようなその視線にうっかり湯呑みを手から滑らせそうになったが、努めて冷静に振る舞った。
茶の間を立ち去ろうと腰をあげたとき、聞いていいか、と高彦がぽつりと言った。
「彼女、どのくらいここへ来てる」
彼女、というのが香津を指していることは明白だった。その曖昧な物言いにわけもなく反抗したくなって、正己は高彦の目をまっすぐと見据えた。
「高彦さんがいない日は、ほぼ毎日」
「……そうか」
まるで避けているようですね、と喉まで出かかった詰問をぐっと飲み込んだ。高彦は思慮にふけるようにこめかみに手をやって俯いた。
「お忙しいようなので仕方ないとは思いますが、彼女、寂しそうですよ」
口をついて出たのは至極まっとうな第三者の言葉だった。高彦は何かを言いよどんでいるようで、それを見る正己の表情は険しい。話を切り上げて立ち去ってしまおうかどうか迷っていると、高彦がふと顔をあげた。
「そうだな。これからはもっと会ってやらねばな」
蝉の鳴き声が振り払いたくなるほどにかしましく響く。町へ向かう山道を辿りながら、正己は頬に垂れる汗を拭った。いくら義足に慣れているとはいえ、起伏の激しい長い道を一人で歩くのは初めてだ。痛みこそないが、義足の装着感に気を揉んでいると、どんどん足取りがおぼつかなくなっていく。
今朝も香津が訪ねてきた。見計らったように高彦が出迎え、二人は例によって庭を散策しながら話をしている。そのさまに耐えかねて、普段は三恵が行っている買い物を買って出たのだ。そうしたからといって何かが変わるわけではない。ただいつものように部屋でじっと二人の様子を伺い、届くことのない思いを送り続けるよりも自分の気が休まると考えたからだ。突然の申し出に三恵はあらぁ、と驚いた様子だったが、特に訝しむこともなく仕事を譲ってくれた。
町に着く頃には太陽は頭上にあった。三恵から教わった道のりをゆっくりと進んでいくと、目的の商店が目の前に現れた。
「すみません」
商店の入り口付近でよいしょと段ボールを運んでいた小太りの女性に声をかける。
「津川ですけど」
三恵から教えられたとおりに名乗ると、女性は手を止めて正己をまじまじと見つめた。
「あら、津川ってお屋敷の」
「はい。今日は代理で来ました」
正己が告げると、女性はまぁ、とわざとらしく口に手をやった。
「みっちゃんの? もしかして、息子さんかしら? でもそんな大きな子供がいるようには見えないわよねぇ……。あ、ごめんなさい」
見当違いの推理をひとしきり繰り広げた後、女性は我に返ったように店の奥へ引っ込んでいった。正己がぼんやり立ちすくんでいると、いきなり右足に何かがぶつかった。見ると、三、四歳ぐらいだろうか、正己に当たって転んでしまった子供が起きあがるところだった。
「ご、ごめんなさい!」
母親は若い女性だった。洋服を着ている。どことなく香津を彷彿とさせるその容姿に正己は思わず見とれた。
若い母親はもう一度正己に頭を下げると、子供を追いかけて道の向こうへ消えていった。
婚約者――その意味を改めて考える。そうだ、香津は高彦の婚約者なのだ。高彦と香津の間でかつて何があったとしても、婚約という事実の前では、道ばたに落ちている石ころのように気にかける価値すらないだろう。どれだけ逢瀬を重ねようとも、決して自分のものになることはない。そう遠くない未来、香津は高彦と結婚し、そして先ほどの女性のように子供を持ち――。
「はいよ、お待たせ」
ややもすれば心に渦巻く黒い靄に絡め取られてしまいそうだった正己を救うかのように、ようやく店の奥から戻ってきた女店員は品物がたっぷり入った袋を手渡した。
「それでよ、式はいつなんでィ」
「そんなことあたしが知ってるわけありませんよ」
「なんだァ三恵さんでも知らねェのか、じゃああの兄ちゃんは……ありゃ? 兄ちゃん今日はいねェのか?」
「あぁ正己さんね、なんだか身体を壊しちゃったみたいでここんとこ部屋で寝っぱなしよ」
自分が話題に上がっているのを耳にして、正己は母屋の扉にかけていた手を降ろした。今自分が姿を現せば、香津と高彦の話題に巻き込まれるに違いない。
正己はおもむろに離れへ戻った。部屋の扉を閉めると、母屋の話し声もぴたりと途切れた。そのまま布団に潜り込む。
身体を崩しているわけではない。食欲もある。ただ、どうしようもなく気持ちが沈むのだ。原因は明白だった。
ここのところ高彦は再び事務所へ出かけなくなった。それは正己が香津との密会を楽しむ機会がなくなるということを意味する。白々しい挨拶。会話できる場所にいるのに、抱きしめられる距離にいるのに、目の前で高彦と連れだって散歩する姿を黙って見過ごしていなければならない。しかも、そうしているときの香津はただの一度きりだって正己を気にかけることはない。
とうとうある朝、三恵に身体の不調だと偽り、正己は離れの部屋に引きこもる正当な理由を得た。
二人が窓を隔てた庭にいるのだとしても、カーテンを引いていればわからない。現実が変わらなくたって、この目で認識するよりはよっぽどマシだ。かたや地主で経営者、かたや足の不自由な居候。誰だって高彦を支持するに決まっている。香津だって――本来であれば正己など関心すら抱かない存在のはずなのだ。三恵も、津川製材の杣夫たちだって、二人が近いうちに結ばれると信じて疑わない。すべては正己の独り相撲以上にはなれないのだ。
正己は寝返りを打った。布団をぎゅっと握りしめる。
このとき正己の中には、自分を養ってくれる主人に対して不義理だという思いはかけらもなかった。ただただ香津が自分のものにならない屈辱感が心を満たした。
目を閉じると、一筋の涙が頬を伝って落ちた。同時に、くすぶり続ける黒い靄がじわり、じわりと正己の内側を侵食していくのを、正己は無意識のうちに感じていた。
静かな夜だった。
こんこんと扉を叩く音がして、正己ははっと目が覚めた。
「正己くん、いるか」
「高彦さん? どうしたんです、こんな夜中に」
のそのそと這い上がって、正己は扉を開けた。
月の光がカーテンの隙間を縫って忍び込んでくる。その光に照らされた高彦は鬼の形相で、燃えさかる劫火を彷彿とさせた。
いったいこんな夜中にどうしたというのか。
「香津は渡さない」
高彦の歪んだ唇から放たれた意外な言葉に、正己は身を固くした。
「高彦さん、何を……」
「お前が香津をたぶらかしているのは知っている。香津は俺の婚約者だ。お前などに渡すものかっ!」
高彦の両手がさっと正己の首に伸びて、そのままきつく絞められる。容赦ない力の込め方に、高彦が本気だということを感じ取る。このままでは――。正己の脳裏をよぎったのは他でもない香津の姿だった。高彦に嫌われていると思いこんで、涙を流していた香津。愛しい香津。身分がいったい何だというのか。みすみすと香津を渡したって、高彦のもとで幸せになれるはずがない。
正己は反撃しようと、高彦の首元を掴み返そうとした。が、高彦は相手の弱点を熟知していた。正己のすねを思い切り蹴りあげ、そのまま前のめりに崩れ落ちた身体を勢いよく踏みつける。
うぅ、と声にならない呻き声をあげる正己をもう一度蹴って転がすと、高彦はそのまま部屋を後にした。やりきれない思いで胸がいっぱいだった。が、立ち上がる気力はもう残されていなかった。
香津はきっと近いうちに高彦のもとへ嫁ぐ。そうしたら自分はどうなるだろうか。屋敷を追い出されてしまえば、香津に会うことはもとより、生きていくことすらできなくなる。どこで道を違ったのだろうか。むろん、正己にはわかっていた。が、わかりたくなかった。あのとき、傷心の香津を救ったことを過ちだとは認めたくなかった。
正己は歯が砕けんばかりに強く歯軋りをした。その音で正己ははっと目覚めた。夢か、と胸をなで下ろす。だが、妙に暗示的な夢だった。正己は胸騒ぎがした。
カーテンの隙間から光の射し込む音すら聞こえてきそうな、静かで穏やかな夜だった。
あの後、自分が寝たのかどうかもはっきりしない。気がついたら朝を迎えていて、正己は妙に冴えた頭で母屋へ向かった。
母屋の扉を開けるとちょうど高彦が出かけるところだった。はたと目が合って、正己はおどおどと身を捩らせた。自然と鼓動が速くなる。
「高彦さん、今日は事務所ですか」
「ああ」
何でもないように答える高彦に、正己は少し落ち着きを取り戻した。夢だとはいえ、目の前にいる穏やかな男の無表情が恨みのこもった表情に変化していくさまを想像すると身震いがする。
「いってらっしゃいませ」
三恵の慇懃な挨拶に見送られて、高彦はそのまま事務所へ向かった。
最近は事務所へ赴く頻度もごく僅かになり、以前のような生活を取り戻しつつあった。違うのは、そこへ香津の訪問が加わったことだけだろうか。それだからか今日の外出は不審だった。まさか、またしても香津を避け始めたなんてことはあるまい。
「あら正己さん、体調はもういいの」
「ええ、おかげさまで」
「そう」
外出の理由を三恵にそれとなく尋ねてみようと思ったが、変に訝しまれても都合が悪い。それに、聞いてもまともな答えが返ってくるとは考えにくい。高彦は自分の予定をやすやすと人に話すことはしない。正己は淡々と普段の家事をこなすと離れに戻り、香津の来訪を心待ちにした。
どういう理由だっていい。ともかく高彦が家を空けさえすれば、それだけ正己が香津と会える可能性が高くなる。身分の差が変えられないものなのだとしたら、自分が香津にとって魅力的な人物になればよいのだ。
正己の足取りは不思議と軽かった。
部屋の掃除などをしようにも、どこかそわそわして落ち着かない。そうしているうちに母屋の方から慣れ親しんだ声が聞こえてきた。
息をひそめて扉を隔てた母屋の様子を伺うと、香津がちょうど追い返されて出ていくところのようだった。慌てて離れに戻る。庭に面した窓を開けて待っていると、しばらくして母屋の陰からちょこんと香津が顔を出した。窓から香津を中に引き入れると、正己はその痩躯を抱きすくめた。
「あなたにお会いしたかった」
正己の言葉に応えるように、香津は背中に回した腕に力を込めた。どのくらいの間そうしていただろうか、香津がもぞもぞと正己の腕の中から抜け出すと、開けっ放しになっていた窓を閉め、カーテンを引いた。
「気づかれてしまいますわ」
久しぶりに自分に向けられる笑顔に、正己の心をじわじわと侵食していた黒い靄が溶かされていく。そればかりか、まるで荒涼たる大地に咲く一輪の花のように、あるいは闇夜に瞬く星々の光のように、彼女の存在は正己に安らぎをもたらした。正己は香津の胸元に顔を埋めた。
二人は布団の上に隣り合って腰掛け、雑多に語り合った。高彦に関することは不自然なほど話題に上がらなかった。窓から光が射し込まなくなる正午を過ぎて空腹を感じても、会えなかった時間を埋めるようにひたすら互いの存在を貪りあった。やがて日が落ちて、庭を濃い茜色から藍色に染め返す頃、母屋の方で電話が鳴った。
三恵が取ってくれるだろう、と何もせずにいると、一向に電話が鳴り止む気配がない。もしかして買い物に出かけているのだろうか。香津に断って母屋に向かう。じりりりと不快な音を鳴らし続ける電話の受話器を乱暴に取り上げると、声の主は高彦だった。
「正己くんか?」
「はい。どうしました?」
「すまないが、仕事が立て込んで今日は帰れなくなった。三恵さんにも伝えておいてくれ」
正己は一瞬耳を疑った。が、それが聞き間違いではないとわかると受話器を持つ手が思わず震えた。二、三の会話を交わした後、通話が途切れた。正己は静かに受話器を置いた。離れに戻ると、香津が不安の色を湛えた瞳で正己を見つめている。まるでその表情が引き金にでもなったように、正己は強引に香津を引き寄せた。
「あなたを帰したくありません」
「正己さん、何を……」
「今日は帰らないそうです、高彦さん」
香津はまぁ、とでも言いたげに口元に手をやった。見開いた眼が虚ろに泳いでいたが、そのうち瞼を閉じて正己の胸に顔を埋めた。受け入れた、と解釈していいのだろうか。正己は香津を抱く手にいっそう力を込めた。
静寂に身を任せていると、母屋の方から三恵の帰ってくるのが聞こえた。香津の身体をそっと引き離し、家具の陰に隠れているよう言いつけると、正己は三恵のもとへ向かった。手に汗が滲んでいる。
「三恵さん」
「あら。……高彦さんは?」
「それが先ほど電話がありまして、今日は帰れないそうです」
「……あら」
初めのあら、よりいささか強い語調で、三恵は眼を丸くした。
「僕、夕飯は取りましたから」
「あら。遅くなってごめんなさいね。ちょっと手違いがあって」
「……いえ」
いったいこの人はいくつのあら、を使い分けるのだろうなどとどうでもいいことに思考を奪われながら、正己は離れへ戻った。
藍色に染まる庭に、暖色のダリアが妙な存在感を放っている。
香津は家具の陰にまるで小動物のように縮こまっていた。息をしていないのでは、と錯覚するほどに気配を隠している。
大丈夫、夜が明けるまで、もう邪魔されることはない。心の中で香津に優しく語りかける。
香津の前にしゃがんでみせると、息を吹き返したようにぱあっと表情が輝く。どちらからともなく、布団に倒れ込んだ。その他のことは、考える余裕もなかった。
二人の熱気を密やかに包んで、夜は更けていった。