短編集 | 君がふりむくとき
――ああ、今日はダメだ。
通勤電車の中で、突然襲いかかってきた感情の波に、私は思わずうつむいた。視界がぼやけ、唇がふるえる。こうなると、もう自力では止められない。ただ周りの人に不審がられないことだけを考えながら、感情の波が引くのを待つだけ。
そういえば、朝起きたときからなんだかやけに気怠かった。いつもより化粧ののりが悪く感じたのは、伏線だったのかもしれない。予知能力だの、超能力だのを信じているわけでもないのに、そんな非現実的なこじつけをしてしまいたくなる。
――今日はダメな日だ。
ダメな日には、ダメな日なりのルーティーンがある。カバンから携帯電話を取り出す。震える手でボタンを操作して、写真フォルダを開く。呼吸が苦しい。肺は酸素を求めているはずなのに、息を吸うと逆に詰まりそうになる。二年前の日付――この頃はよかった。何もかもが今と違っていた。朝はさわやかで、昼はあたたかくて、夜はうつくしかった。景色には色があって、街中は音でにぎやかだった。私はまだ世間を何も知らない甘ちゃんで、彼は生きていた。
事故で死んだ彼を思い出して、耐えられないほどの感情に飲み込まれるのは、決まって朝の電車の中だった。世の中はこんなに人であふれているのに、どうしてあの人だけがいないんだろう――そんなことを無意識のうちに考えてしまうからなのかもしれない。髪型も、服装も、持ち物も、彼とは何もかも違う人ばかりが周囲にあふれていて、誰も彼もが無関心を装って、ただ目的地にたどり着くのを待っている。時折、それが憎くてたまらなくなる。どうしてみんな、違うんだろう。どうしてここにいる人たちは彼じゃないんだろう。こんなに人がいるのに、どうして彼だけがいないんだろう。どうして彼だったんだろう。
携帯電話を操作して、次々と写真を切り替える。心にぱっくりと傷があいて、血がどくどくと流れ出ているようだ。写真をめくる手が止められない。それだけが傷をふさぐ唯一の方法であるかのように。
一緒に行ったテーマパーク。パンケーキのお店。近所の公園。何気ない日常のワンシーン。こんな未来が待っていることなど予想することなく、無邪気に笑う二人。つらいはずなのに、つられて笑ってしまいそうになる。
アナウンスが到着を告げた。
わたしは携帯を閉じ、カバンにしまった。
今日もどうにか、生きることができた。
***
君は決してふりむかない。
君が慌ててカバンから携帯電話を取り出すとき、君は悲しみのどん底にいることを僕は知っている。君の大きな目には涙がにじみ、鮮やかなピンク色の唇が小さく震えていることを僕は知っている。
ごめんね。ごめんね、こんな思いをさせて。
でも、君は決してふりむかない。いつだって手の中の小さな画面を見つめて、肩を震わせて懸命に耐えている。人混みにもまれ、電車の揺れに耐えながら、君は涙を流して思い出をふりかえる。その姿が、どれだけいじらしいか。
守ってあげたい、と思っているか。
ねぇ。僕はここにいて、ずっと君を見守っているよ。
力になれなくてごめんね。僕はここにいるのに、声もかけられなくてごめんね。
でも、僕はずっと君を待っているよ。
君が気づいてくれるまで、一日も忘れずに君のことを見守っているよ。
だからもう、悲しまないで。
***
――ああ、また。
涙が頬を伝って、顎から腕にぽとりと落ちた。電車が揺れて、腕に落ちた水滴がすべりおちていく。途中までは調子が良かった。なのに、知らない間に涙がこぼれていた。
今日もダメな日みたいだ。私は本能的に携帯電話を取りだした。苦しくて溺れてしまいそう。
写真フォルダから適当な日付を選んでボタンを押す。パンケーキの写真が画面いっぱいに映って、ようやく息ができた。
――このお店。
まだ鮮明に覚えている。付き合ってすぐの頃に行ったお店だ。確か誘ったのは彼で、お店を決めたのは私だった。でも、変なことを言って嫌われたらどうしよう。食べ方を変に思われたらどうしよう。そんなことばかり考えていて、あまり話も弾まなかったっけ。せっかくのパンケーキの味も、あまり覚えていない。
会計するためにレジに向かったときのことだ。彼が支払いをしている間、店員さんがずっと彼の方をちらちらと気にして、何か言いたげにしていた。支払いを済ませた後、店員さんが私たちにさっと近づいて、
「あの、お顔に」
彼の顔を見ると、頬にクリームがついていた。しかも、両方の頬に、鏡に映したみたいな左右対称で。
「どうしたらそんな風になるの!」
私は笑いこけた。店員さんがつられて笑った。彼は慌てふためきながら、店員さんがくれたティッシュで必死に顔を拭いていた。
思えば、あの瞬間から私たちの距離は少しずつ縮まっていったのかもしれない。
画面を見つめながら、私の顔は自然とほころびていた。
アナウンスが到着を告げた。
わたしは携帯を閉じ、カバンにしまった。
生きていかないといけない。彼がいないこの世界で。
***
パンケーキ。あのお店だね。もちろんちゃんと覚えているよ。
ふわふわのパンケーキが、二枚。その上にたっぷりのホイップクリームと、ラズベリーのソース。ただふわふわなだけじゃない。じゅわっとあふれ出るような歯ごたえもある。この不思議な食感は、他では味わえないかもしれないね。
ラズベリーのソースだけじゃなくて、チョコレートとか、他にも色々あったよね。
君とテーブルを挟んでパンケーキを食べるシーンを想像する。
君は、何を食べたのかな。
ねぇ。笑ってよ。何の屈託もない、未来が続いていくことを信じきった笑顔を、僕に見せてよ。
そんな、世界の終わりみたいな顔をしないで。わかるよ。君の顔は見えなくても、後ろ姿でわかるんだよ。
ふりむいて。僕を見て。
そしたらもう二度と君を悲しませたりしないから。
でも、君は決してふりむかない。
僕はここにいるのに。ふりむいてくれさえすれば、いつでも君と思い出を語り合えるのに。望むなら、またあのお店に連れて行ってあげるのに。
***
電車に揺られながら、ふと息が苦しくなる。涙の予感を感じて、私は携帯電話を取りだした。
適当な日付を選ぶ。画面に映ったのは派手な色のマフラーをした彼と私のツーショットだった。
マフラー。
そう、この派手なマフラーだった。
「おそろいで買おうよ」
と言われて、
「派手すぎない?」
と返したら、
「見つけやすくていいでしょ。君はすぐに僕のこと見失っちゃうから」
って言ってくれた。
でも、結局私がマフラーを目印にすることはなかった。買ってしばらくして、彼がマフラーをなくしてしまったからだ。
ごめん、ごめん、としきりに謝る彼の姿に、私の方が申し訳なくなってしまった。
そうしている間に春が来て、マフラーの出番はなくなって――また冬が来たけれど、そこはもう彼がいなくなった後の世界。そんな世界で、このマフラーをする気にはなれなかった。
だって、もう私は二度と彼を見つけられないのに。彼が私を見つけてくれることもないのに。
マフラーをしていれば、いつか彼が私を見つけてくれる。見つけて、前みたいに笑ってくれる。そんな日はもう来ない。だったら、片割れだけなんて意味がない。
このマフラーは今、クローゼットの奥深くで眠っている。
胸が痛んだ。
アナウンスが到着を告げた。
わたしは携帯を閉じ、カバンにしまった。薄汚れた雑居ビルの裏側が車窓から見えた。
生きているということが、ひどく現実離れしているように感じた。
***
マフラー。おそろいのマフラー。あの、大通りから少し離れた雑貨屋で売っているやつだよね。あまり人が来ない感じで、店主が趣味でやっているのかと思うぐらいのんびりしたところだよね。正直、入るのに少し勇気が必要だったよ。
あ、でもマフラーはもちろん大切にしているよ。今もほら、首に巻いている。だって、せっかくの君とのおそろいだもの。こんな寒い日だけど、君とおそろいだと思うと、それだけで暖まる気分だよ。
少し派手だけれど、君にはとても似合っているよ。ほら、黒とかグレーとか、そういう服を着ることが多いじゃない? だから、首元に色があると、それだけで華やいで見えるよ。キレイだよ。
でも、冬になってから、君がこのマフラーをしているところをまだ見たことがない。残念だなぁ。どうして? まさかなくしちゃった……なんてことはないよね? 職場の服装規定が厳しいのかな。わからないけど、僕はまた君がこのマフラーをしているところを見てみたいな。
僕は、今もつけているのに。
だって、せっかくの君とのおそろいだもの。
ねぇ、またおそろいしようよ。
***
どうしてこの世界に彼がいないのか、たまによくわからなくなる。
だって、ほら、いるじゃない。
画面の中で笑っているじゃない。
私は全部、覚えている。彼の笑顔も、声も、ついやってしまう癖も、何気ない会話も、手のぬくもりも。
いない、って何だろう。この前まではいたのに。
いない、なんて嘘だよね。きっとどこかに隠れて、私を驚かそうとしているんだよね。
いつか私の目の前にひょっこりと現れて、
「やっと見つけてくれたね」
なんて言ってくれるんだよね。
そうでも思わないと、無限に続いていく日常の重みに押しつぶされてしまいそう。
――きっといつか、迎えにきてくれるよね。
それを信じて、私は今日も電車に揺られている。
***
君は決してふりむかない。ふりむかないで、画面の中の思い出ばかりを見ている。そんな君を見ていると、いとおしく思う反面、少し苛立たしくもある。
もうそんな写真を見るのはやめなよ。そこに映っているのは、とうの昔死んだ男じゃないか。もうそいつはこの世にはいない。いない奴のことなんか、考えても無駄じゃないか。
代わりに僕を見てよ。僕はずっと君のそばにいるよ。この世にいない男のことなんて忘れて、僕のことを見てよ。
初めて君を見かけたとき、僕は一目で心を奪われた。
君はいつも同じ時間、同じドアから電車に乗ってくるよね。そのことがわかったから、僕も君に合わせて、毎日この電車に乗ることにしたんだ。
この何ヶ月間、ずっと後ろから君を見つめていたよ。
君と友人とのやりとりから、君の恋人が死んだことがわかった。君が時折開く写真フォルダで、それがどんな男かもわかった。デートで行った場所、食事したお店、プレゼントしたもの、何もかも知っているよ。だって君が教えてくれたから。
僕は君が見せてくれた写真を元に、君たちが行った場所に全部行ったよ。君がそいつに贈ったプレゼントも、全部同じものを買った。美容院で同じ髪型にして、そいつが着ていた服と同じものも買った。
僕は今、その写真の中の男と髪型も、服装も、持ち物も、全部同じのまま、君の後ろに立っている。
だから、いつまでも写真なんか眺めていないで、ふりむいてよ。
君がふりむいてくれたら、その写真の男がそのままここにいるんだから。もう、そんな風に耐える必要はないんだよ。行きたい場所があるなら連れて行ってあげるし、おそろいのプレゼントも買ってあげる。僕が守ってあげるし、僕が愛してあげる。
今も僕は君を後ろから見つめながら、僕に気づいてくれるのをずっと待っているんだよ。
だから、ねぇ。
早くこっちをふりむいて。
(2026.10.17 投稿)