旅人たちの紡歌

初恋

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 夕暮れが放課後の教室を寂しげな薄闇で包む。私は自席に横向きに腰掛けて、双子の妹である美衣の横顔を見つめていた。
 美衣はさっきからじっと窓の外に視線を固定していて、微動だにしない様子は魂が抜けてしまったかのようだ。
 そういえば。
 クラスが違うはずの彼女が、なぜここにいるのだろう?
 私に何か用事があったのだろうか、それにしては何かを切り出す素振りは一切見せない。それでは私の方から美衣を呼び出したのだったか。記憶を遡ろうとしたが、なんだか頭が妙にぼんやりしていて思い出せない。
 陽の傾き具合から推測するに、授業が終わってまだ一時間程度しか経過していないのだろう。それなのに私たちがここにいる経緯すら覚えていないなんて、とんだお笑い種だ。
 思わず自嘲めいた笑い声が漏れた。
 しかし美衣は相変わらず虚ろで無反応だった。紺から橙へ続くグラデーションの空を背景にして、彼女の青白い肌はひどく儚い。よく似ている双子だと昔から言われ続けてきたし、友人ですらときどき私たちの名前を取り違える。けれど私の眼の前にいる美衣の姿は、まるで別人のようだ。開いた窓からときおり吹き付ける風が、彼女のつややかな黒髪をめちゃくちゃに散らした。今日は風が強かったんだっけ――心の中でそう呟いたとき、ふと引っかかりを覚えた。
 風が強かった? 本当に?
 そんな疑問が不意に湧き上がってきて、今日一日のことを回想しようとした。そして私の思考ははたとストップした。
 覚えていないのは授業後のことばかりではない。今日という日が、いや、ここ数日がまるごと私の記憶から抜け落ちているのだ。
 そんな馬鹿な。自分自身が俄かに信じられなくなった。前日の夕飯を思い出すのに時間がかかることはあるけれど、一日の出来事をまるまる忘れてしまうなんて。しかもそれが数日に渡ってだなんて。そんなことあるはずない、と必死に時間の糸をたどっていっても、この場所に二人でいる場面でぷつりと糸が切れてしまっている。覚えている最後の記憶は先週の日曜日、友達の誕生日会から帰るところだった。あの日からの数日間を思い出す行為は、底の抜けたカップで水をすくっているかのようで、全く手ごたえがない。
 きっと美衣の存在のせいだ。美衣のただならぬ雰囲気が気がかりで、私の平凡な日々など無意識のどこかに追いやられてしまったのだろう。
 この不気味な現象をそんな風にむりやり解釈してみたら、未だ静止している美衣が無性に腹立たしくなってきた。言いたいことがあるならさっさと言いなさいよ。そう促そうとして、私は言葉を紡いだ。
「ちょっと、美衣――」
「あのね、美波。私……」
 唐突に言葉を重ねられて、思わずたじろいだ。美衣はまっすぐと私を見据えているが、心なしか声は震えていた。仕方なく口をつぐんで続きを待っていると、教室のドアがそっと開かれた。姿を現したのは一人の少年だった。
「やっぱりここにいたのか」
 彼は私に一瞥をくれると、真っ直ぐ美衣の方へ歩みを進めた。水を替えてきたところなのだろうか、手に持っていた花瓶をロッカーの上に置いた。
 現れた少年の名前を頭に思い浮かべる。桜井ヒロキ。私のクラスの学級委員をやっていて、勉強もスポーツも人並み以上にこなせることから生徒からも先生からも人望が厚い。少女漫画のヒーローのような彼だけれど、幼馴染である私たち双子とはことのほか仲が良く、軽口も叩き合える関係だ。彼を狙うあまたの女子生徒の中で、私は頭一つ有利な立場にいる、そんな自負もあった。とは言え私たちは今年で卒業。なんとか同じ高校に入れるように、受験勉強を頑張らないと。
 ヒロキのことをちゃんと記憶していることにほっと胸をなで下ろしたのも、束の間。ヒロキと美衣は何やら深刻な面持ちでぽつり、ぽつりと言葉を交わしているが、その距離がやけに近い。割り入っていきたかったのだけれど、二人が放つ拒絶の雰囲気になんとなく及び腰だった。
 美衣にさっきの続きを問いただすこともできず持て余していたから、私の意識は否応なく二人の会話に引き寄せられた。二人ともやたらと語調が弱々しい。特にヒロキなんか、教壇に立ってハキハキとスピーチする姿とは対照的だ。耳に入るほとんどが日本語の文章として聞き取れなかったけれど、断片的に「あんなことがあって……」だとか「辛いと思うけど……」だとかのフレーズをとらえることができた。
 あんなこと? どんなことだというのだ。
 そもそも私はヒロキに対する気持ちをしつこいぐらいに美衣に伝えてある。牽制のつもりだったし、彼女もそれを理解してくれていると思っていた。なのに今、美衣はヒロキと二人の世界に浸っている。私の眼の前で、私には意味のわからない指示語を使って。
 二人は親密な雰囲気を放ちながら、時折私の方に目をやる。二人の意図をまったく推測することができなくて、疑問は憤怒に変質した。私は机を叩きつけて勢いよく立ち上がった。
「ちょっと美衣、さっきからどういうつもりなの!?」
 美衣は反応しない。私が発した怒鳴り声は教室に潜む闇に溶けこんでしまったかのように、二人に何の影響も及ぼさなかった。さすがに我慢できなくなって美衣に張り手の一つでも食らわせてやろうと、足を踏み出したとき、ヒロキが私の方へゆっくりと向かってきた。だからといって立ち止まるほど私は落ち着き払ってなどいなかった。心の中にある何もかもをぶつけたかった。
 ヒロキが目の前まで来た。二人とも立ち止まらなかったら当然衝突することになるけれど、それで構わないと思った。私は足を止めない。日に焼けた首元が視野いっぱいに覆った。ぶつかる覚悟で私は目を閉じた。そして。
 しばらく身構えていたけれど、衝撃は感じなかった。ゆっくりと目を開くと並んだ机の向こうに美衣が立っている。ぼんやりと窓にもたれかかっている。ヒロキは?
 後ろを振り向く。ヒロキはちょうど私の机の前に立ってうなだれている。そして右手に持っていた何かを机に置いた。花瓶だった。
 そのくすんだ青色に挿された黄色い花を目にして、胸に鉛の鉄球を打ち込まれたかのような心地になった。
 机の上に花瓶。その意味するところは当然知っている。きっと、たちの悪い冗談だ。そう考えようとしたけれど、私の無意識は真実を思い出しかけていた。それでいながら、認めることを拒否していた。
 すぐ背後で美衣の気配がした。ヒロキのもとへ歩み寄ってきたのだろう。私は硬直したままで、花瓶の置かれた自分の机を見つめていた。唐突に、美衣が私の眼前に現れた。もちろん、私を避けて前に来たわけではない。すり抜けた、のだ。文字通りに。
 声に出して叫びたかったけれど、恐怖に束縛されてできなかった。さっきまで二人の無反応があれほどまでに腹立たしかったのに、今は無反応が異常なほどに恐ろしくて、発するべき声を失ってしまったかのようだった。
 美衣のすすり泣く声が聞こえた。いまや全てを思い出していた私の脳内には、あの日の映像が異常なまでの臨場感をもって流れていた。
 突き抜けるような晴天に、銀色の雲が輝いていた、そんな爽やかな夏の日だった。別の中学へ進学した友達の誕生日会に参加した後、私と美衣は肩を並べて帰路についていた。何がきっかけだったか定かではないが、おおかたショーウインドウに飾られた服飾小物か何かに記憶を誘引されたのだろう、友達の家に忘れ物をしてしまったことに気が付いた。特に時間に迫られていたわけではないが、私の悪い癖で、知らず知らずのうちに気持ちが急いていた。美衣に一言言い残して来た道を引き返した私は、ろくに確認もせずに交差点に飛び出した。信号のない小さな交差点だからと油断していたのかもしれない。左耳でとらえた急ブレーキ音。反射的に振り返った私の視界はライトのまばゆさに満たされた。下半身を襲う鈍重な衝撃と、鋭利な痛み。意識が弾けた。覚えているのはそこまでで、それが全てだった。
 私は死んだのだ。どういうわけか天国でも地獄でもないこの教室に舞い戻ってきたが、私の姿は二人には見えないし、声も聞こえない。実体をもたない身体はなぜか椅子には座れるけれど、生身の人間はすり抜けてしまう。そういうことなのだ。
 教室には美衣のすすり泣きだけが響いており、かえってそれが沈黙の重苦しさを増している。不思議と感傷的な気分にはならなかった。まだ実感がないからなのかもしれないし、今まで過ごしてきた教室が相変わらず目の前にあるからなのかもしれないし、目の前で泣き続けている美衣への心配の方が勝っているからなのかもしれない。
「美衣……」
 届かないと知りつつも、私は声をかけずにはいられなかった。「私はここにいるよ……」
 美衣のすすり泣きは止む様子がない。そのことが私の心をちくりと刺した。こんな美衣を見るのは辛い。とても。身を翻してこの場を去ろうとしたとき、私は不意に思い出した。
 さっき美衣は何かを言いかけたのではなかったか?
 そのことを思い出してなぜかひどく嫌な予感がしたけれど、このまま去ってしまおうという気持ちを翻意するには十分だった。私はじっと身構えて美衣が泣き止むのを待った。
「私……さっき美波に私たちのこと報告しようと思って」
「どうして?」
 隣に立つヒロキが尋ねる。美衣の答えまでしばしの時間があった。私たちのこと。その言葉が意味することは何なのか。続きを聞きたいような、聞いてしまってはいけないような、二つの意思がせめぎ合っていたけれど、決断する前に美衣の声はこぼれた。
「だって美波、ヒロキくんのこと好きだったのに、ずっと内緒で付き合ってたこと隠したままでこんな……美波に申し訳、なくて」
 耳にした言葉を理解するよりも早く、私の思考が凍りついた。寒気が全身に伝わって思わず身震いをする。窓から吹き込む風があるはずのない体温を奪っていく。
 なんで、どういうことなの。そんな、美衣が。ヒロキが。ようやく氷解し始めた思考が何かを考えようとしたけれど、断片的な疑問符と名詞ばかりが次々と押し寄せてきて真実から目を逸らさせる。心の奥底では理解している、けれど認めたくない。信じたくないのだ。
 衣擦れの音がした。きっと背後ではヒロキが美衣の身体を――ああ、その先は言葉にしたくない。唇を噛んだつもりだけど痛みはなくて、代わりに心がずきりと痛んだ。
 情けなかった。気付かないうちにのけ者にされていた自分が。美衣を協力者だと信じて疑わなかった自分が。気持ちを伝えさえすればヒロキは喜んで頷いてくれるだろうと傲りたかぶっていた自分が。
 どうして。どうしてなの。心の中で渦巻く様々の感情に何と名付けたらいいのかわからないまま、私は自問を繰り返した。足元が崩れ落ちる感覚がして思わずしゃがみこんだ。目からこぼれた涙が、無慈悲にも膝をすり抜けていく。
 声をあげて泣くことができないのが不思議だった。音のない空間はまるで永遠のよう。私はきっと永遠の中に沈んでいって、誰にも見つけ出されることなく朽ちていくんだろう。
 何倍にも引き延ばされた沈黙の時間の末に、がたりと音が響いて、ようやく私を感傷からすくい上げた。
 振り返ると、二人は立ち上がって帰ろうとしていた。ヒロキの右手には美衣の鞄がぶら下がっており、左手は美衣の肩を優しげに包んでいる。そのまま教室のドアから出て行った。
 私は慌てて後を追う。ドアから顔を覗かせると、二人は薄暗い廊下の向こうへ消えていくところだった。闇に溶けていくそのシルエットを見つめているうちに、私は自分の中で燃え上がる感情を自覚した。
 ついこの間まで、三人で仲良しだったじゃない。なのに美衣とヒロキは知らない間に関係をつくって、私の声はもう届かない。ヒロキは私の初恋だったのに。
 二人が完全に闇の中へ消えていったのを見計らって、私は教室へ戻った。机に置かれた花瓶がいやでも目に入る。まるでこの世界が私を拒絶しているようだ。お前のいる世界はここじゃない、と。
 そう。私はもうこの世界へ戻ることはできない。だって私は死んだのだから。もうヒロキの視線が私へ向けられることはないし、ヒロキを奪った美衣に文句を言うこともできない。
 花瓶を手に取る。水のたっぷり入った花瓶は想像以上に重くて、私はもう片方の手で花瓶の底を支えた。
 私の存在は、もうヒロキにも、美衣にも届くことはない。それなら、届くところまで連れてくればいいんだわ。そして、昔みたいに冗談を言い合ったり、喧嘩をしたり……。
 花瓶を持ったまま、私は窓際へ近寄った。二階から見下ろす校庭に闇が沈んでいる。窓のすぐ下には校舎に沿うようにして道が延びている。学校から出るにはこの道を通って校門をくぐらなければならない。じきに二人もここに姿を現すはずだ。私は暗闇に目を凝らしてじっと二人を待った。
 やがて足音が聞こえ、闇の向こうからゆっくりとした足取りで二人が歩いてきた。教室を出て行ったときと同じように、ヒロキは美衣の肩を抱いている。花瓶は一つしかなかったけれど、そんなことは頭になかった。
 私は花瓶を持つ手を振り上げた。


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