旅人たちの紡歌

晴嵐の少年少女!晴嵐の盟約編 | 第1章-09


 足音が近づいてくる。
 予期していたとはいえ、鉄格子の向こうに隼斗たちの顔が現れると、絶望的な気分に襲われた。むっつりと無表情で歩いてくる隼斗の背後で、神原が薄気味悪い笑みを浮かべている。もはや今朝のような気概はなくなってしまった航は身を固くしたまま、二人の動向を見守った。
「よォ。元気にしてたかぁ?」
 神原が隼斗の後ろからひらひらと手を振った。隼斗は何も言わず、冷たい視線を部屋の中へと向けている。航、愛、航、愛、航、と舐め回すように見やった後、照準を愛に定めた。愛の身じろぎをする気配が伝わってくる。
「おい」
 隼斗は愛の方を顎で指し示すと、神原に目配せをした。
「女の方っすね。了解っす」
 神原は素早く前へ歩み出ると、カードキーをかざした。熊のような図体が扉をくぐり抜け、愛のところへ一直線に向かう。愛は激しく首を振りながら後ずさるが、そんなささやかな抵抗など神原に対しては何の意味もなさなかった。神原は愛の細い腕をひっつかむと、無理矢理廊下へと追い立てた。ピッと鍵の閉まる音がすると、航は我に返ったように立ち上がり、鉄格子の扉をひっつかんだ。
「おい! 何する気だよ!」
 見ると、隼斗は愛を捕らえたまま廊下の向こうへ消えていくところだった。
「アニキぃ、俺も後でおこぼれに預からせてくださいよォ」
 神原が隼斗の背中へと声をかけた。隼斗は軽く手を挙げると、廊下の角を曲がっていった。そのやりとりがなぜだかひどく不潔に思えて、航は吐き気を覚えた。
「おい! 愛を返せ!」
「チッ、忌々しいガキだな」
 扉に張りついて叫び立てる航の腹部に、神原が拳をお見舞いする。鉄格子を掴んでいた指はあっけなく離れ、航は宙を舞った後、床に崩れ落ちた。
「心配しなくても、アニキが今頃たァっぷり遊んでやってるよ」
「やめろ!」
 航はとっさに耳を塞いだ。実際のところ、隼斗と神原が何を企んでいるのかを具体的に理解しているわけではなかった。神原から発せられる澱んだ何かが、空気を伝って航に入り込んでくることを本能的に拒絶していた。
 尾を引くような下品な笑い声を残して、神原は航の視界から消えた。耳を覆っていた手をそっと離す。驚くほど静かだった。ときおり窓の外を通り過ぎていく微かな風の音以外は、何も聞こえない。愛はどこへ連れて行かれたのだろうか。
 じっとしているのも耐えられなくなって、立ち上がって部屋の中をぐるぐると歩き回りながら、何か物音や声が聞こえてきやしないかと意識を常に外へと向ける。もっとも、何が聞こえたところで航には何もすることができない。だが、無音というのもまた嫌な想像をかき立てるのだ。
 やきもきとする航の耳が、微かな足音をとらえた。はっとして鉄格子の扉へとはりつくと、向こうから歩いてくる隼斗が見えた。愛はどうしたのだろうか。
 徐々に大きくなる隼斗の姿に目を凝らすと、どうやら愛はその後ろにいるようだった。ただし、自分で歩いていない。今朝、航が神原にされたように、隼斗に引きずられている。
「おい、神原」
 ピッ、と電子音が響き、もう一つの足音が加わる。どうやら神原はこの建物から立ち去ったわけではなく、ずっと外で待機していたらしい。
「どうでしたかアニキ」
「とんだじゃじゃ馬だ。興がさめる」
 隼斗と神原、そして引きずられている愛が部屋の前で合流した。愛は手足を縄のようなもので縛られていた。航が目をみはっていると、愛と視線が合った。航を睨みつけるような鋭い視線は、怒りと憎しみ、そして反抗心に満ちていた。それが自分に向けられている感情であると錯覚して怯みそうになったが、次の瞬間、航の胸中には安堵が広がった。まだ、こんな目をするだけの元気はある。少なくとも絶望の淵に追いやられたりはしていない。
 航は扉から離れ、窓の近くに座り込んだ。奴らに正面から立ち向かっても逆効果だ。大人しく従っているふりをして、まずは愛を返してもらわなければならない。
「今日は終わりだ。帰るぞ」
 隼斗はぶっきらぼうに言い放つと、ゴミ袋でも放るかのように愛を投げ出して、さっさと出口へと去っていった。神原は不服そうな声をあげながらも、カードキーをかざして扉を開けると、愛を押し込める。
「待ってくださいよ、アニキぃ」
 神原が小走りで隼斗の後を追う。少ししてから、エンジン音が聞こえてきた。隼斗の言ったとおり、今日はもうここから立ち去るつもりらしい。
 徐々に小さくなっていく車の音をぼうっと聞いていると、愛がもぞもぞと身体を動かしていた。
「早くほどきなさいよ!」
「わりぃ、忘れてた」
「はぁ? 何考えてんのよ、バカ! ノロマ!」
 航は苦笑しながら愛のもとへと駆け寄った。むろん、忘れてなどいない。普段なら腹を立てるはずの罵声を浴びることが、無性に嬉しかった。
 自由になると、愛は集ってくる虫を追い払うように全身を素早く叩いた。航の視線に気がつくと、ぴたりと動きを止める。
「何見てんのよ」
「いや、別に……」
 しばし逡巡し口ごもっていると、愛は何かを察し、目をつり上げた。
「何もされちゃいないわよ!」
 気になっていたものの声にするのをためらっていた問いに、愛が答えた。
「あいつが手を出してくる前に撃退してやったんだから」
 ふふん、と誇らしげに顎を上向けるのを、航はまじまじと見つめる。撃退? 愛が隼斗を? 朝、神原に挑もうとしてあっけなく敗れたことを思い出す。確かに、神原と比べたら隼斗は華奢な方だ。だが、曲がりなりにも大人の男が、十歳そこそこの少女にあっさりと白旗をあげることなど有り得るのだろうか。
「あたし、風塵が使えるのよ」
 航が訊いてくるのを待ちきれなかったのか、愛は自分から言い出した。
「風塵って……風塵か?」
「そうよ」
 航の間抜けな質問に茶々を入れることもなく、愛は鼻高々と答える。
「ウソだろ?」
「ウソだと思うなら見せてあげるわ。――ほら」
 愛の合図と同時に、床に溜まっていた塵や埃がゆっくりと渦を巻きだした。次第に速度を上げる竜巻のようなそれは、呆然としていた航の頬を叩き、睫毛をくぐって眼球に攻め入り、容赦なく攻撃する。
「うわっ、いてぇ! わかった、わかったからもうやめろ!」
 涙を滲ませながら叫ぶと、塵の竜巻はぴたりと止んだ。
 風塵――辺りに溜まっている塵や埃を利用し、風を巻き上げることで相手の動きを封じる術。学校では教えてくれない術だ。使える人間もかなり少ないという。それを、こんな少女が?
「見直した?」
 こんな状況だというのに、愛の声は弾んでいる。
「あー、うん。はい。見直しました」
「もっと心をこめなさいよ」
「うるせぇ!」
 そんなすごい術が使えるのならば初めから捕らえられたりするなよ、と言いたいのをぐっとこらえ、航はごろんと寝転んだ。鉄格子の窓の外で星が瞬いている。
「はー、侑利さん、早く助けに来てくれないかなぁ」
 何気なくぼやいた。愛がつられるように窓の外に目をやり、すぐに航に視線を向けた。
「あんた、よっぽど好きなのね、そのユーリって人が。そんなに可愛いの?」
「お前はもっと世間に興味を持った方がいいぞ。侑利さんは男だっての。今この状況から俺らを救えるのは侑利さんしかいないんだよ」
「ふうん」
 愛の返答は上の空だ。
「ずいぶん信頼してるのね、その地区総代ってのを。公安委員よりも信頼できるんだ」
「公安委員なんて、その辺に突っ立ってるだけの木偶の坊だろ。近くで喧嘩があってもスルーだし、夜にはみんないなくなるし」
 公安委員が本来の役目――町の治安維持という職務を果たしているところを見たことは一度もない。何もしないくせに、何か秘密裏に企んでいるかのように街角で目を光らせている彼らのことが、航は不気味で苦手だ。
「俺、地区総代になりたいんだ」
 何気なく漏らした言葉を、愛はやはり興味なさそうに受け流した。別の誰かにうっかり話そうものなら、盛大に笑われるような夢だ。「航みたいなバカが」「ちょっと運動神経がいいだけじゃ務まらない」「それ以前に選ばれない」「候補にも挙がらない」など、航の夢を否定する言葉には事欠かない。もっとも、かといって萎れてしまうような航ではない。
 いつの間にか愛は壁と向かい合うように横たわっていた。微かな寝息が聞こえる。航もやがて意識が途切れた。