旅人たちの紡歌

晴嵐の少年少女!晴嵐の盟約編 | 第1章-08


 神原に引きずられて部屋の前まで来ると、愛は目を覚ましていた。航が中へと蹴り飛ばされると、いけないものでも目撃してしまったかのように、青い瞳を思い切り逸らす。
「妙なことを考えやがるんじゃねぇぞ。お前らなんかの力じゃどれだけ足掻こうと無駄なんだからよ。慈悲深い隼斗のアニキは今のところお前らを廃棄する気はねぇみたいだが、もっかいこんなことを企んでみろ。次はどうなるかわかんねぇからな」
 神原が渾身の力を込めて鉄格子の扉を閉めると、その衝撃音に愛の身体がびくりと反応する。人形のように無造作に転がった航は、扉の閉まる音も、カードキーの軽快に響く音も、神原が去っていく足音も、どこか夢の中のように遠かった。ぼんやりと開いた瞳は部屋の片隅で怯えている少女の姿を映していたが、思考が完全に止まってしまった脳では、彼女のことを何とも認識できなかった。
「……ねぇ」
 どこからか、か細い声が降ってくる。
「ねぇってば。起きてるの? ていうか、生きてるの?」
 どこかで聞いたことのある問いが瞳に映した少女から発せられているのだと気づくのに、数秒かかった。ようやく思考が動き出し、焦点を結び始めると、身体中の感覚が現実に引き戻される。窓から降り注ぐ光の暖かさ。コンクリートの冷たさ。そして額と鼻の頭に張りついたままの、痺れるような痛み。
「……ってぇ! 何すんだよ、バカ!」
 飛び起きながら放った罵声は、しかしどこにも行き先がないまま、廊下に反響しながら霧散していった。窓の形に切り取られて落ちてくる光の眩しさが、妙に虚しい。航はずきずきと痛む箇所を押さえながらうずくまった。
「ねぇ、何してたの? あいつに何されたの?」
 隅にいた愛が駆け寄ってきて、航の近くに座り込む。航のことを心配しているというよりは、自分も同じ目に遭わされるかもしれないという不安からくる問いだった。航は迷ったが、正直に説明することにした。隠しても不安を煽るだけだし、その結果として変に取り乱されることだけは避けたい。
 事の顛末を航が話している間、愛はときおり眉根を寄せたり顔を歪めたりしながらも、神妙に聞いていた。
「地区総代って……そんな、あたしたちのことが分かるっていうの?」
 投げかけられた質問は思いもよらないものだった。
「はぁ? お前、知らないのかよ。遠視を使って自分の区をパトロールするのは地区総代の基本的な仕事だろ。ほら、あの雲雀駅のでっかい駅舎ん中で」
「何よ、知らないわよ。興味ないもの、地区総代なんて。今の地区総代が誰なのかもわかんないし」
「選挙も行ってないのか? ……って、行ってたらあんなところで捕まってたりしねーか」
 地区総代選挙からちょうど帰ってきたタイミングで、愛が捕らえられている現場に遭遇したのだ。航たちは侑利の地区総代就任を見届けた後、早々と引き上げてきたが、ほとんどの観衆はまだ残っていた。愛が地区総代との握手を血眼になって求めるようなミーハーだったら、今頃こんな目に遭っていないのに、と航はなんとも言えない気分になった。
 隼斗たちが残していった食料でとりあえず空腹を埋めると、二人は壁に背をつけて座り、とりとめのない話をした。和気藹々とはとても表現できるものではなく、胸に降り積もる恐怖から目を逸らすための会話だった。
「もう、授業始まってるよね」
「始まってるどころか、メシ食ってお昼寝タイムだろ」
「お昼寝タイムって?」
「午後の授業のことだよ」
 いたって真面目に航は言った。教育委員は生徒のことには一切興味を示さないが、授業中の居眠りにだけはなぜか厳しく目を光らせる。航も初等学校に入学した直後は、居眠りをすれば体罰を加えられ、反省するのも束の間、次の次の授業ではまた同じことを繰り返すありさまだった。だが、そうはいっても食事の後の眠気にあらがうことは、航にとって何にも勝る難事。結果的に、教育委員の目に留まらぬように睡眠をとる技術がめきめきと上達したのである。当然、それは筆記の成績という形で跳ね返ってきているのだが。
「……不良」
 愛はぽつりと呟いた。航を非難する意図はなさそうだった。
「あたしたち、帰れるのかな」
「帰れるに決まってんだろ。帰れなかったらどうするんだよ」
 勢い込んで言ってみたが、何の裏付けもない言葉は、情けないほど弱々しかった。
 窓から射し込む光の色合いだけが、時の経過を知らせる。
 朝霧と成葉はどうしているのだろうか。うろたえる朝霧と、そんな朝霧を冷たくあしらう成葉の姿が目に浮かび、胸が痛んだ。友人が行方不明になったとしても、この世界に頼れる者がいないことは二人ともよくわかっている。残された者にできるのは、ただ無事を祈って待つことだけ。航は二人の幻に向かって、俺はここにいるぞと叫びたかった。
 空気が冷たくなってきた。いつしか外の光は消え失せ、明滅する廊下の蛍光灯が底冷えするような恐怖をかきたてる。
 静かな空間の中に、遠くから物音が響いた。軽快な電子音と、引きずられるように扉が開く音。部屋の空気が凍り付く。
 助けが来たという可能性はゼロに等しい。奴らが戻ってきたのだ。