旅人たちの紡歌

晴嵐の少年少女!晴嵐の盟約編 | 第1章-07


「よう、ずいぶんと朝寝坊なこった」
 頭の中に割って入るような不愉快な声に、航はうっすらと目を開けた。無機質な灰色が視界を埋めている。いつも身体を預けているベッドはこんな色ではないはずだ。それに、やけに硬い。もしかしてベッドから落ちてしまったとでもいうのだろうか。最近は寝相の悪さもだいぶ治ってきたというのに、こんなことは珍しい――
 寝ぼけた頭でそこまで考えると、航ははっと上体を起こした。声の降ってきた方向をたどって顔を上げると、鉄格子の向こうで汚物でも見るような目が航を見下ろしていた。
「俺たちの用意した寝床がお気に召したようでよかったよ。それともなんだ、昨夜はお楽しみだった、ってか?」
 鉄格子に手をかけたまま、神原はくつくつと忍び笑いをしている。その視線が航とその背後を交互に行き来しているのに気がついて、航は後ろを振り向いた。青い髪の少女が、身体を小さく丸めて寝転がっている。ここがどこなのか、何があったのかを完全に思い出した航は、血の気が引いていく感覚を味わった。そういえば、やたら強い光が先ほどから航の頬を叩きつけている。窓から流れ込んでくる光は明らかに朝を過ぎた、太陽が真上に近いところまで昇った頃のものだ。
 ――どうして。こんなところに初等生が二人も寝転がっているのを発見したなら、おかしいと思わないはずがないのに。
 焦りと混乱が錯綜する中、航は昨日の隼斗の言葉を思い出す。確か――この部屋は遠視がしづらいと、そんなことを言っていなかったか。
 打ちひしがれたように肩を落とす航の姿に、神原は満足そうな笑みを浮かべた。そのまま去っていこうとするのに気づいて、航は反射的に立ち上がる。鉄格子に体当たりして、神原の後ろ姿に向かって声を張り上げた。
「おい! ちょっと待て……待ってください!」
 神原はちょうど廊下の突き当たりの自動扉にカードキーをかざそうとしているところだった。航の呼び声に気がつくと、頭だけを振り返る。重たそうに半分閉じられた瞼は、いかにも面倒だと言いたげだ。航はできるだけ自分の姿が必死に映るよう、大げさな表情をつくって身体を揺らす。
「あ? 何だ」
「……もれそう」
 ぽつりと呟いた言葉は、がらんとした空間で思いがけず情けなく響いた。神原が大きなため息をつき、困ったように頭を掻く。身を翻してつかつかとこちらへ向かってくるのを見て、航は心の中でガッツポーズをした。
「……ったく、世話の焼ける奴だな。小便ぐらい窓で済ませておけ」
 航はそれには答えず、切迫した視線を神原に送り続ける。神原も本気で言ったわけではないようで、カードキーを持つ手を認証装置に近づけた。
 しめた、と思った。
「いてっ」
 航は鉄格子の扉が開ききる前に細い身体をするりと滑らせ部屋から這い出ると、神原の鳩尾のあたりに精一杯の頭突きをお見舞いした。図体の大きさが倍以上違うといえど、さすがに不意打ちの攻撃を受け流すことはできなかったらしい。よろめく神原を後目に、航は足先の向いた方へと駆けだした。
 何も、神原から逃げ切る必要はない。愛がまだ部屋の中で眠っているのだ。ただ、隼斗の言葉を信じるのならば、あの部屋に留まっている限り遠視の力は及ばない。逆にいえば、部屋から出てしまえば侑利に見つけてもらえる可能性は高くなるということだ。そのための時間稼ぎだった。
「……んのクソガキが!」
 背後から神原の罵声が飛んでくる。ちらりと振り返ると、神原が体勢を立て直して追ってくるところだった。
 実際のところ、地区総代の仕事ぶりを見たことがあるわけではない。ただ、そういう仕事があることを知識として知っているだけだ。だから侑利がいつどこで遠視を行い、その結果としてどんなアクションを起こすのか、正確なことはわからない。ただ、あのまま部屋でじっとしているのは嫌だったのだ。
「てめぇ、バカにしやがって!」
 神原の罵声が先ほどよりも近い。足の速さには自信があっただけに、思ったほど突き放せていないことに焦りが生まれる。飛行に切り替えた方がいいだろうか。飛行術が得意な航にとって、地を駆けるよりは飛んだ方が移動は速い。一般人が許可なく術を使うことは禁じられているが、緊急事態なのだからきっと許されるはずだ。
 自分の中で勝手に作りあげたルールに言い訳を与えているうちに、やがて廊下の突き当たりに差し掛かった。角を曲がったら飛行に切り替えるつもりだった。走るスピードを緩めて、足先を左に向ける。飛ぶための体勢に移ろうとした瞬間、航は自分の判断の誤りに気がついた。
「バカめ、隼斗のアニキは簡単に逃げられるような場所を選ぶほど考えなしじゃねぇよ」
 曲がった先にあったのは、認証装置によって固く閉ざされた自動扉だった。この扉を開けるためのカードキーなど持っているはずのない航にとって、行き止まりと同じだ。絶望的な気分になった航に、すぐ後ろで聞こえた神原の声が追い打ちをかける。
 完全に追いつめられた。逃げるつもりはなかったが、追いつめられたときのことは何も考えていなかった。扉に背を向けた航は唇を噛んで、もったいぶるようにゆっくりと歩いてくる神原を睨みつける。
「ったく……だから男はいらねぇってあれほど言ったのによ……。おい、お前」
 伸びてきた手が航の首根っこを掴もうとするのを素早くかわして、神原の脇の下へと身体を滑り込ませる。が、その目論見はあっけなく潰えた。航の動きを予見していたかのように突き出された足にまんまと引っかかり、ろくな受け身もとれないまま顔面から床に激突した。コンクリートの床は固く、逃げなければという意欲もかき消してしまうほどの痛みに襲われた航に、もはや勝算はなかった。
「ハッ。ガキが俺に逆らおうなんざ百年早いんだよ」
 うつ伏せに倒れる航の脇腹に、神原が一蹴りを入れる。声など出せる状態ではないのに、反射的に呻き声が漏れる。怒り、不甲斐なさ、恥ずかしさ、焦り、恐れといったものが混ぜ合わされた感情が身体の奥で蠢いていたが、意識の表層を覆い尽くす強烈な痛みのせいで、航はもう指先一つ動かすことができなかった。