旅人たちの紡歌

晴嵐の少年少女!晴嵐の盟約編 | 第1章-05


「……あんた、誰?」
 大の字に寝そべっていた航を一瞥すると、少女は眉をひそめた。先ほどまで少女から発せられていた声とは異なる、腹の底から吐き出されたような低い声だった。透き通るような青い瞳には、あからさまな怪訝の色が浮かんでいる。不躾とも受け取れる口調に言い返したくなるのをぐっと堪える。巻き込まれた方だとはいえ、決して少女のせいではない。
「俺は雲雀町の航。そういうお前こそ……」
 一体何があったのかと訊ねようと身体を起こすと、今度ははっきりと怯えが宿った。小動物のように素早い動きで、部屋の角まで後ずさりする。
「嫌、嫌、やめて、来ないでよ!」
 ぶんぶんと首を左右に振る姿は、車の中で隼斗の腕に怯えるそれとまるきり同じだった。男たちの仲間だと思われているか、そうでなければ航がこの場で少女に何かをしようとしているように映っているのか。どちらにしても失礼な話だった。航の中で何かが熱を帯びてくる。だん、と片足を床に叩きつけたい衝動を、抑えきれなかった。やっぱり、と言わんばかりに少女が首をすくめる。
「あのなぁ。こんなところで争ったってしょうがないだろ」
「はぁ? それはあんたの方でしょ!」
 喉の奥から絞り出したような少女の言葉に、航ははたと気づいた。確かに、喧嘩を売るような行動をとったのはむしろ自分の方だ。続けようとしていたすべての言葉を慌てて飲み込む。熱がさあと引いていく。気まずそうに頭を掻いた航は、少女から視線を逸らした。なるべく驚かせないように静かに立ち上がると、少女の居場所とは反対側の角にちょこんと座り込んだ。とはいえ、それほど大きい部屋ではない。せいぜい開いた距離は五メートル程度だろう。
「まぁ、なんだ。その、……ごめん」
 気まずい沈黙が部屋を満たした。少女はそっと顔を上げて、航の方に視線をよこす。意図は伝わっただろうか。まるで二人の間を取りなすかのように、蛍光灯がちらちらと明滅する。これ以上、自分から何か働きかけるのはなんだか違うような気がして、航は膝を抱えるようにしてじっと待った。
「なんであたしがこんな目に遭わないといけないのよぉ……」
 しかし少女から返ってきたのは、航の言葉をまるで聞いていなかったかのような、弱々しい嘆きだった。嗚咽のような声を漏らしながら、両手で顔を覆う。航はばつが悪くなった。一度だけ、間違いで同級生の女の子を泣かせてしまった、あのときと同じような感覚。耳に突き刺さる悲痛な声に心を激しく揺さぶられながらも、ただ大人しく謝る以外にできることが他にない、あの歯がゆさ。しかも今回は、航が泣かせたわけでも何でもないのだ。
 しばらく待ってみても、嗚咽はいっこうに止む気配がない。かける言葉を懸命に探すものの、どんな慰めも何の力も持たないような気がして、航は気取られぬように溜め息を吐いた。
 つと、声がぴたりと止んだ。少女はふっとあげた顔を、航の方へ向く。
「……無能」
「はぁ?」
 いきなり降ってきた聞き捨てならない罵倒に、航は考え込んでいたことを何もかもかなぐり捨てた。少女は睨みつけるようなまなざしを航に注いでいる。詰め寄りたい衝動をなんとかこらえた。また泣き叫ばれたらたまらない。自然と力が入った握り拳のやり場を、自分の太腿に求めた。
「なんで俺のせいになるんだよ。捕まってたのはお前だろーが」
「あんたこそ、頼んだわけでもないのに勝手に来たくせに! 公安委員を呼ぶとか、なんかもっとあったでしょ!」
 言葉に詰まる。確かに、車に気を取られてしまったのは迂闊だった。
「まぁ、それは、そうだけどさ……。けど公安委員だって朝にならないと呼べないし、そしたら今ここでお前一人きりだぞ」
 今度は少女が口を閉ざす。青い瞳に宿っていた鋭い光が、ぐらりと揺らいだ。
「……だからって、あんたに何ができるっていうの」
「それをこれから考えるんだろ」
 そもそも、判断ミスがあったとはいえ巻き添えを食らった側がなぜ責められているのだろうという疑問を極力押し殺して、航はつとめて冷静を装う。すぐにかっとなるんだから、と成葉にたしなめられた回数はもう数え切れない。朝霧はおろおろとするばかりで航に意見することはほとんどないが、成葉の叱責には神妙な顔つきでうんうんと強く同調していた。
「何よ偉そうに! もう、誰のせいでこんなことに……」
 息を吸い込んだら、声を乗せる前にゆっくりと吐き出すの。そうしているうちにあつあつに沸騰した頭も冷めてくるでしょ、といつだったか成葉が言った。ぶっきらぼうな言い方だが、成葉の言葉には不思議な重みがある。
「俺のせいじゃないし、お前のせいでもないだろ。全部奴らのせいだ。だから、なんとかする方法を探すんだよ。な?」
 航の説得に、少女のまとう気配がふっと和らぐ。少女がそれ以上何も言い返してこないことを悟ると、航は背後の壁に背中を預けた。知らず知らずのうちに肩に力が入っていたらしい。
「学校は」
 不意に、少女が呟いた。これまでのやりとりなどなかったかのような声色だ。質問されているのだと気がついて、航は再び壁から背中を離した。抱えていた膝を崩して、あぐらをかく。
「有川(ありかわ)初等学校、三年生」
「なんだ、一緒なの。あたし二年生」
 部屋の反対側で、青い瞳が急にらんらんと輝いた。仲間だと認定してくれたのだろうか。強ばっていた表情が和らぎ、丸めていた手足をゆっくりと解いていく少女の姿は、つぼみが花開いていくさまにも似ていた。航は返す言葉を失ったまま、目を離すことができなかった。
「雲雀町の愛よ。えっと、何だっけ、……トオル?」
「わ、た、る」
 航と同じように、この世界で最初に教え込まれる方法で愛は名乗った。地区名を名字として名乗ることができるのは、地区総代とその右腕だけなのだ。いとも自然に航の名前を間違えた愛は、ことさらに強調して訂正されても悪びれる様子もない。だが、責める気にはならなかった。ひどく混乱した様子だったから、頭がまともに働いていなかったとしても無理はない。愛は何がそんなに面白いのか、くつくつと声を押し殺すようにして笑っている。先ほどまでとはまるで別人だ。
 問題が一つ解消した手応えを得た航は、ようやく今の状況のことに思考が及んだ。改めて、部屋を見渡す。学校の教室よりも狭い、やけに細長い部屋はがらんとしていて、隼斗と神原が残していった食料らしき物体以外には何もなかった。コンクリートの床と壁は、ちょうど航の肩幅ほどしかない小さな窓を除いては一面に同じ灰色をしている。その窓にも、扉と同じように鉄格子がはめ込まれている。
 航は立ち上がると、窓へと歩み寄った。ガラスははめ込まれていなかった。建物から少し離れたところに、黒々とした影が連なっているのが見える。どうやら林のようだ。その向こうには、空に届かんばかりに高く築かれた、白い壁。地区の境界だ。全部で百三あるそれぞれの地区は、この巨大な白い壁によって仕切られている。夜の闇の中でも白だと分かるのは、町のどこにいても目に入るそれがもはや日常の風景として溶け込んでいるからだ。とはいえ、普段は町の比較的中心部で暮らしている航は、そそり立つ壁をこんなに間近で見たことはなかった。どうやら六十三区の外れ、隣地区にきわめて近いところのようだと、航は自分が立っている場所を推測する。
 鉄格子の隙間に腕を伸ばすと、外の空気はひんやりとしていた。気温はそれほど部屋の中と違うわけではないが、よどみのない空気だった。手のひらが洗われて、汚れが剥がれていくような感覚がした。
 いつの間にか、愛が隣に立っていた。
「……どこなの、ここ」
「さあ? 少なくとも俺は知らない場所だ」
 航は身体を少しずらして、愛に窓の外を示してみせた。
「壁? ずいぶん遠いところまで連れてこられたのね」
 ちらりと愛の横顔を盗み見る。淡々とした口調とは裏腹に、表情にははっきりと不安の色が浮かんでいた。ガラス細工のように危うげに透き通る青い瞳が、心なしかちらちらと揺らいでいる。やはり、一人にしなくて正解だった。愛の言うとおり、航がいたところで何ができるわけでもない。ただ、一人で閉じこめられた愛が、こんな風に立って外を眺めていられるとは思えなかった。
 ここから逃げ出す術はない。仮にできたとしても、隼斗たちに見つかることなく家にたどり着けるかどうかは分からない。彼らがどこに潜んでいるのか、そして航たちを監視しているのかどうかすら知らない以上、下手に動くのは危険だ。それならば、考えなければならないことはただ一つ。このことを誰かに気づいてもらえるまで、無事に生き延びること。
 航は一人、こくりと頷いた。
 学校は、頼りにならない。決められたカリキュラムに沿って淡々と口から言葉を滑り出すだけの教育委員にとって、生徒などまるで気に留めるような存在ではない。航一人が教室からいなくなったところで、気がつくかどうかすら怪しい。朝霧や成葉はさすがに不審に思うだろうが、かといって彼らに何かを望めるはずがない。
 と、なると――。
 航の脳裏に、一人の男の笑顔が浮かび上がる。赤茶色のソバージュ・ヘア。その色よりももっと深い、緋色をたたえた瞳。地区総代選挙のときに見た姿そのままだ。侑利さん、とその男の名を、心の中で祈るように呼ぶ。地区総代は、遠視の術を使って定期的に地区を見回りしている。生き延びて、侑利に見つけてもらうこと。それが航の思いつく可能性の中でもっとも確実であり、信じる意味のある未来だった。