旅人たちの紡歌

晴嵐の少年少女!晴嵐の盟約編 | 第1章-04


 ヘッドライトが消え、次いでエンジン音が止んだ。真っ暗で何も見えないが、屋内らしいということはなんとなくわかった。
「ほら、出ろ。こっちだ」
 一足先に車外へ降り立った神原が、後部座席の扉を開けるなり航の腕を掴んだ。荒々しい声が妙に反響している。それなりの広さの空間であるようだ。上体を先に引きずり下ろされ、航は地面に激突しそうになるのをもう片方の腕で支えてなんとか凌いだ。人間を扱うような手つきではまるでない。文字通り道具としか思っていないことが、これ以上なく如実に伝わってくる。物理的にも、状況的にも言葉を封じられている航は、心の中だけで激しく毒づいた。
 車の反対側では、隼斗が腰をかがめて扉を開けて少女を連れ出そうとしていた。だが少女は伸びてきた手に大人しく従わなかった。隼斗の手をかわすように身体をよじると、航たちのいる扉へと後ずさりする。首を激しく振り、わけのわからない抵抗の言葉をまき散らしながら。
「おい、神原。ドア」
 にょきりと頭を出した隼斗はぶっきらぼうに命じた。あいあい、と気のない返事をして、神原が目の前の扉をばたりと閉じる。あっと思ったときには遅かった。隼斗の腕から逃れたい一心で空をさまよっていた少女の指先は、ほんのわずかに外へとはみ出していたのだ。そこへめがけて勢いよく衝突する扉。くぐもった悲鳴が車内から漏れる。尾を引くような叫びだった。挟まれたのがあたかも自分の指であるかのような錯覚すらして、航は顔をゆがめた。
 ようやく少女を両腕に収めた隼斗が先導する。痛みに懲りたのだろうか、少女はもう抵抗するそぶりを見せなかった。ピッと軽快な電子音が響き、すぐ目の前で自動扉が開いた。カードキーまで持っているとはよっぽど計画的な行動らしい。認証さえ通ってしまえば、持ち主が誰で、どんな意図を持っていようと、平等に扉は開く。そういうものだとは理解しつつも、その融通のきかなさが今はひどく恨めしかった。
 自動扉の奥は相変わらず明るくはなかったが、天井に消えかかった蛍光灯が一つ、頼りなげな光を散らしている。
「神原、ここだ」
 前を歩いていた隼斗が急に立ち止まった。その腕が指し示しているのは、鉄のような棒が格子状にはめ込まれた扉だった。この世界では見かけたことのないその形状に、航は目を丸くした。こんな扉が動くのだろうかと眉をひそめつつ視線を探ると、壁にはちゃんとカードキーの認証装置が取り付けられている。
「大丈夫ですかねぇ、ここで。ずいぶん入り口に近い気がしますが」
「ああ、問題ないさ。前から密談なんかによく使われていた特別な部屋だ。ちょっとやそっとでは遠視できないような作りになってる」
 さすがぁ、と妙にわざとらしい神原の声に、航はぞわりと寒気を覚える。
「というわけで、ここが今日からお前らの家だってよ」
 唇を歪めながら航を見下ろす神原の表情には、なんともいえないおぞましさが滲んでいた。蔑みでもないし、怒りでも憎しみでもなかった。言うなれば、自分よりも弱い存在をいたぶること自体が楽しくて楽しくてたまらないといった表情。その濁った瞳に自分の姿が映されているのだと自覚したとき、航は過去の選択を悔いた。やはり、無理にでも振り切って逃げた方がよかったのかもしれない。少女を置いていくことになるが、公安委員に通報すればなんとかなっただろう。少なくとも、十三歳の子供一人でなんとかできるような状況ではない。だが、今更そんなことを考えても仕方なかった。
 再び、電子音。鉄格子の扉がかちりと音を立てる。解錠された扉を神原が思いきり蹴った。何をされるか今度は予想がついていた。がしりと首元を掴まれる。生ぬるい手のひらは湿っていた。神原は航の身体を自分へと引き寄せると、ハンドボールでも投げるかのような調子で部屋の中めがけて放った。なんとか踏ん張って倒れずに済んだ航が振り返ると、隼斗が競うように、少女を使ってまさに同じことをするところだった。
「うわっ」
 投げ込まれてくる少女を受け止めようと身構えていたものの、隼斗の力は予想以上に強かった。支えきれずに少女もろとも背後の壁へ激突した。じんじんと痛む後頭部を手で押さえる。少女は立ち上がる気力もないのか、全体重が航の腹部に預けられている。開け放たれていた扉はいつの間にか再び元の位置に戻されていた。隼斗がさっとカードキーをかざす。無情な電子音。二人を隔絶する鉄格子の向こうで、神原が挑発するように変な動きをしている。
「おい、アホなことをしている場合か。さっさとメシを与えて引き上げるぞ」
「腹を空かせた方が楽しくありませんかねぇ」
「ふん、何も分かってないな」
 それまで神原の向こう側に隠れていた隼斗はいきなり歩みでてくると、鉄格子に指をかけて笑った。
「下手に体力を削ったら、すぐに壊れてしまうだろう? せっかく手に入れたおもちゃだ、できるだけ長持ちしてもらわねばならんからな」
 ぞっとするような笑みだった。神原の、ただ薄気味悪い笑みとはまるで違う。見る者の心臓を一瞬で凍てつかせてしまうような、氷よりももっと冷たい視線。薄い唇から紡がれる言葉には、憎悪すら滲んでいる。呪縛でもかけられたかのように、航はまばたき一つすることができなかった。
「さっすが隼斗のアニキ、考えることが違いますなぁ! ……ほらお前ら、メシにありつけることを感謝するんだな」
 再び鉄格子の向こう側が神原にとってかわる。神原はどこからともなく持ってきた籠をがさがさと探ると、鉄格子の隙間からぽとりと落とした。何度かそれを繰り返した後、神原は空っぽになった籠を無造作に投げ捨てた。鉄格子の扉の手前には、二人の言う「メシ」らしき物体が散乱していた。
「くれぐれも妙なことを考えるんじゃない。神原、行くぞ」
「へいへい。ま、お二人さん、せいぜい仲良くな」
 ひらひらと振る神原の手のひらが、最後だった。遠ざかっていく足音。腹立たしいほど軽快な電子音がした後は、もう何の音も響いてこなかった。鉄格子の向こう側の廊下では、相変わらず蛍光灯が不規則に瞬いている。
「はー、どうすっかなぁ」
 と言ったつもりが、うまく言葉にならなかった。はたと気がついた航は身体にのしかかっていた少女を床に転がすと、後頭部の金具に指をかけた。まずは猿ぐつわを外さなければ。食事まで用意しているのだから、外したとしても制裁を加えられることはないだろう。
「ちょっとごめんね」
 もごもごとしか聞こえないであろう声で断りを入れる。反応がない。意識を失っているのならば都合がいいと、航は指先を動かし始めた。自分で外すのは難しいが、他人が手元を見ながら着脱する分には容易な類の金具だ。ベルトはゴムのようなべたべたと吸いつく素材でできており、肩まである少女の髪はまんまと絡め取られてしまっている。よく作り込まれた代物だということが、こんな物騒な品とは縁のない航にもわかった。どこまでも手の込んだ計画だ。隼斗の言葉から察するに航たちを廃棄するつもりはないようだが、おもちゃとは一体何を指しているのだろうか。それが思いつかないだけに、かえって恐ろしかった。
 髪の最後の一束を慎重によけると、航は長い息を吐いた。ようやく少女を解放することができた。犠牲になった髪も二、三本で済んだ。だが、相変わらず少女は床にうつ伏したまま、ぴくりとも動かない。だんだん不安が大きくなってきた航は、少女の肩に片手を置いて控えめに揺すぶる。
「おーい」
 これではまともに声をかけることもできない。少女の猿ぐつわを外した記憶を頼りに、航は自分の後頭部に両手をやった。一度経験してみれば、あっけないほどに簡単だった。髪が短いため絡まる心配もない。結局、少女の猿ぐつわを外すよりも短時間で航の口元は解放された。
「起きてる? ていうか、生きてる?」
 加える力を徐々に強くしながら、航は揺すぶり続ける。それでも少女は反応を示さない。まさか本当に廃材と化してしまったのだろうか。急に全身から血の気が引く。ここへ連れてこられたときは自分で歩いていたし、生命に関わるようなことは何もされていないはずだ。単に気絶しているだけだと思い直した航は、少女の上に頭を乗り出して再び声をかける。
「おーい。奴らはもう行っちゃったから、起きてもいいんだぜ」
 もしかしたら、自然に目覚めるのを待った方がいいのだろうか。無理に起こすのは可哀想かもしれない。そのことに気づいて頭を引っこめようとしたとき、揺すっていた手の下にあった肩がぴくりと動いた。いきなりがばりと跳ね上がってきた上体。引っこめようとした頭は、間に合わなかった。悲劇が起きた。
「ってぇ!」
「痛っ!」
 少女の頭突きをもろに食らった航は、額を押さえてのたうち回った。少女のいた場所からは、どさりと倒れ込むような音。あれだけの勢いでぶつかったのだから、頭突きをした方も相当のダメージを受けているに違いない。
「起きる前に一言言えよな……」
 そんな理不尽な恨み言が、思わず口をついて出る。そうこうしているうちに痛みが引きつつあった航は、床に転がったまま薄目を開く。少女は相変わらず突っ伏していたが、片手を枕のように顔の下に敷き、もう片手で後頭部を押さえていた。とりあえず、生きてはいる。そのことを確かめると、急に疲労感に襲われた。たとえ固い床の上であっても、全身から力が抜けることは妙に心地よかった。自然と瞼が落ちていく。
「もう、何よ、何なのよぉ……」
 眠りの淵を覗きかけていた航は、ぽつりと響いた声に鼓膜を叩かれてはっと目を開けた。少女が頭を押さえながらむくりと起きあがるところだった。