旅人たちの紡歌

晴嵐の少年少女!晴嵐の盟約編 | 第1章-03


 帰宅した朝霧は早々に風呂を済ますと、勉強机に向かった。といっても筆記の勉強をするためではない。紅潮させた頬を緩ませながら、鞄の中をごそごそと探る。リズムでも刻むかのように頭が左右に揺れているのは、すこぶる機嫌が良い証拠だ。
「これこれ」
 鞄から取り出したのは、一冊の本。地区総代選挙を見に行く前に立ち寄った古書の貯蔵庫で、偶然見つけたのだ。昔、すなわち年齢による世界の分断がなされる前は、ここ六十三区は有名な古書店街であったらしい。三十歳以上のいわゆる大人と呼ばれる人間があちら側の世界へ移り住むようになって、主を失った古書店の蔵書はすべて貯蔵庫に収容された。
 古書というだけあって、貯蔵庫にあるたいていの本は表紙がすり切れていたり、ページが黄ばんでいたりするのだが、この本は違った。革張りの装丁は誰も手を触れたことがないかのように艶やかで、本の背はほつれることなく物語のすべてをしっかりとつなぎとめている。焦げ茶色の表紙には、今にも踊り出しそうに輝く金色の文字が流麗に題名を奏でている。
「『晴嵐の盟約』、か」
 朝霧はまるで味わうかのように、ゆっくりとそれを読み上げる。まだ表紙すら開いていないというのに、耳朶を撫でるその響きに甘い痺れを覚えた。物語をほどく前の、特有の高揚感。
「普段行かないようなところにも行ってみるものですね」
 古書の貯蔵庫には足繁く通っているものの、立ち入るのはたいてい決まった区画ばかりだった。筆記の成績は学校でも群を抜いているとはいえ、大人たちが残した学術書の類はさすがにまだ早い。今日見つけたこの本は、学術書の区画をずっと奥まで通り抜けたその先にあったものだ。行ってみようと思ったのはほんの気まぐれだ。黄ばんだ背表紙ばかりがずらりと並べられた中、真新しい焦げ茶色が不思議な存在感を放っていた。場違いな自分をここから連れ出してほしいと懇願しているようにも見えて、朝霧は内容を確かめることなく書架から抜き取ったのだ。
 眼鏡をくいと押し上げて、背筋を伸ばす。洗ったばかりのタオルで手汗を拭き取ると、手のひらで表紙をさあと一撫でした。
「本当に、新品みたいです」
 しみじみとそう呟くと、表紙の端に指をひっかけて、秘密でも暴くかのようにめくった。その瞬間、視界を焼き付けるような強烈な光が現れて、辺りを覆った。何かが起こったということに思考が及ぶ前に、本能的に瞳を閉じる。瞼を隔ててもなお、目に染み込んでくるようなまばゆさだ。思わず顔を背ける。頬に何かが当たった。それが勢いよく吹き付ける空気の塊だとわかるまで大して時間はかからなかった。窓を開けていないから風など入ってくるはずもないのにと、言葉の形にならない疑問が頭の中で生まれかけたとき、朝霧の右肩がいきなり固いものにぶつかった。
「ったぁ……」
 恐る恐る瞼を持ち上げると、視界が九十度回転していた。いつの間にか投げ出されていたらしい身体は、右肩を下にして床に転がっていた。外れかけた眼鏡が鼻の先に引っかかっている。視力を奪うような強烈な光はもうなかった。痛みをこらえながらゆっくりと上体を起こした朝霧は眼鏡をかけ直し、はっとしたように机の方へ顔を向けた。
 本が、浮いていた。淡いほのかな光に包まれて、ふわふわとたゆたっているのだ。いくつもの光の筋が、本の中心から伸びていた。あるいは、本に向かって光が集まっているのかもしれない。幻想的だと感動を覚えるにはあまりに現実離れしすぎているその光景を、朝霧は両手を床につけたままただぽかんと眺めていることしかできなかった。
 どのくらいの間そうしていただろうか。ふいに、光が消えた。ぷつりと糸が切れたように、本が落下する。机に叩きつけられる固い音が鼓膜を震わせた。しんと静まりかえった部屋。動くものはもうなかった。
 我に返った朝霧は跳ねるように立ち上がると、机に駆け寄った。本はちょうど半分ぐらいのページを開いて、何事もなかったかのように鎮座している。朝霧は目を見開いた。震える手で他のページを勢いよくめくりながら、視線を小刻みに動かす。何がどうなっているのか、想像できる範疇を超えていた。
 どのページも、真っ白であった。