晴嵐の少年少女!晴嵐の盟約編 | 第1章-02
ずいぶんと遅くなってしまった。移り変わった空の色に、航の足は自然と早まる。家には誰もいないのだから、帰宅が遅いことを咎められるということはもちろんない。ただ、寝る時間がずれ込むことで学校に遅刻してしまうのはよくなかった。
一人になった航の脳裏に、先ほど見たばかりの地区総代選挙の様子がまざまざとよみがえる。四人の候補者がおのおのの術を披露して、地区総代としてふさわしい資質を兼ね備えていることをアピールするのだ。
「空中大回転もすごかったけど……」
航は候補者の一人に思いを馳せた。飛行能力に長けていることで有名なだけあって、群衆の頭上を見るも鮮やかに回転しながら飛んでみせたのだ。飛行術は学校の基礎科目でありある程度は誰もが使うことができるが、それだけに応用をきかすのは難しい。航も学校内では飛べる方ではあるが、空中でさらに身体を回転させるとなるとできるかどうか自信がなかった。もっとも、許可なく術を使うことは禁じられているから、試してみる機会もないのだが。
「でもやっぱり侑利さんだな」
雲雀町の侑利、地区総代に選ばれた今となっては雲雀侑利と名乗ることができる彼を間近で見るのは、実のところ今日が初めてだった。侑利が壇上にあがった途端、広場を覆っていた空気が一変した。あの独特の雰囲気をなんと表現したらよいか、航には語るすべがない。ただ確実に何かが変わったことは、両腕に立った鳥肌が証明していた。広場にいた誰もが、いっせいに息をのむ気配。その一瞬の間の後には、他の候補者のときとはまるで違う、大地の底からわき起こるような歓声。揺れるはずのない地面が揺れたような錯覚すら覚えて、航は思わずよろめきそうになった。存在自体が人を惹きつけ魅了してやまない、それこそが侑利の最大の武器であり、地区総代にもっとも求められる資質なのだ。
「……かっこよかったなぁ」
しみじみとそう呟く。壇上で声援を浴びながら笑顔で手を振る侑利の姿を思い浮かべると、航の中の弱気がつい顔を出しそうになる。二人の前ではああ言ってみせたが、自分が総代になるような人物とはかけ離れていることは当然自覚していた。学校で優等生だと扱われている成葉でさえあの調子なのだ。第一、自分が人を惹きつけるようなものを持っているとは思えない。
道ばたに小石が転がっている。弱気な心を吹き飛ばすかのように、航は力を込めて蹴り上げた。
「負けねーぞ」
小石が再び地面に落ちると同時に、航は握り拳に力を込めた。侑利だって、航と同じなのだ。十歳の肉体でこの世界に出荷され、訳も分からぬまま初等教育を受けさせられる。侑利だけでない、この世界に住む者であれば誰だって条件は同じだ。もちろん初期能力の差はあるかもしれないが、そんなものは後からいくらでも覆せるはずだ。それに、航は出荷されてからまだ三年しか経っていない。希望を無くしてしまうには早すぎる。
気がついたら家の前までたどり着いていた。相変わらず街灯だけが夜道を照らしている。この辺りには他にも初等生が住んでいたはずだ。学校は大丈夫なのだろうか。
他人の心配をしつつ、ジーンズのポケットからカードキーを取り出す。門を開けようとしたところでふと、何か異様な気配を感じて手を止めた。耳を澄ますと、かすかに人の話し声が聞こえる。どうやら家の裏手のようだ。
特に根拠があったわけでもない、ただ妙に嫌な予感がしたのだ。航は息を殺して路地に入り込むと、壁を伝うようにしてゆっくりと進んでいった。話し声が近づくにつれ、次第に心臓の鼓動が高まっていくのを自覚する。どうやら二人の男がいるようだ。会話の内容はよく聞き取れないが、不穏な雰囲気が漂っていることは察せられた。喧嘩や言い争いにしてはあまりにも静かだ。どちらかというと、何かを共謀している様子だといった方が正しい。そうなると、航が飛び込んでいったところで意味などないだろう。こういうことは公安委員の領分だ。何も気づかなかったことにして引き返そうかという選択肢が生まれた瞬間、二人の声とは別の、女の悲鳴が航の耳を貫いた。
話し声に背を向けかけていた航は、はっと振り向いた。壁が途切れる手前まで素早く進むと、頭だけをそっと覗かせた。二人の男が何かを壁際で取り囲んでいる。男たちの死角になって見えないが、先ほど悲鳴をあげた女なのは間違いない。さらに向こうには、航の背ほどもある大きな塊が闇の底で妙な存在感を放っていた。その正体に思い当たって、航は思わず瞠目する。
「車……?」
この世界に、車は存在しない。あちら側、いわゆる大人の世界にしか存在しないものだ。見間違えだろうかと目を凝らしてみても、目の前にあるそれは教科書に載っていた写真とほぼ同一の形状をしている。ナンバープレートと呼ばれる小さな板が黄色いように見えるが、そういった車種もあるらしいと習った。そんなものがどうしてここにあるのだろうか。男たちの持ち物だとするならば、彼らはわざわざこちら側の世界へやってきた大人なのか。航は身体を強ばらせたまま、しばらく視線を外せずにいた。
それが過ちだったと気づいた頃にはもう遅かった。しまった、と声にならない自責を吐き出したときには、いつの間にか近づいてきていた男に航の左腕はがっちりと掴まれていた。強い力で引きずられて、もつれる足は転ばないようにするのに精一杯だった。大声を出そうと思っても、なぜだかひきつった喉からは吐息が漏れ出るばかりだ。
「隼斗のアニキ、もうひとり獲物がいましたぜ」
まるで物でも扱うかのような粗暴さで、男は隼斗と呼ばれたもう一人の男に航の身体を投げ渡した。さすがに支えきれなくなって崩れ落ちる航の身体を、隼斗は手際よく抱き留めた。口元から頬にかけて、ひんやりとした金属のようなものが押し当てられる。猿ぐつわをはめられたのだと理解したとき、ようやく脳内で危険信号が点滅した。左右に視線を走らせるも、薄暗く狭い路地には人ひとり見あたらない。普段は鬱陶しいくらいに目につく公安委員さえ、勤務時間が終わったからかすっかり姿を消してしまっている。
「なんだ、男か」
「まぁまぁ、いいじゃねぇすか。まだちっこいガキだし、女と大して変わりゃしませんて」
男たちは何やら勝手な論評を始めている。会話の内容や状況から察するに、少なくとも今この場で航を廃棄するつもりはないようだ。下手に暴れない方がいいかもしれない、と本能的に判断した航は、身体を隼斗に掴まれつつもさりげなく頭を動かして後ろを振り返る。黒い影が地面に張りつくようにしてうずくまっていた。
「神原(かんばら)、女の方を頼む」
「ういっす」
かろうじて嫌ぁ、と聞き取れるようなでたらめな悲鳴が、うずくまる影から飛び出した。妙にくぐもっていたのは、航と同じように猿ぐつわをはめられているからだろう。神原は弱々しく抵抗する女の腕を掴むと、引っ張り上げるように無理矢理立ち上がらせた。薄闇にうっすらと浮かび上がる顔はひどく幼く、女というよりは少女といったほうが適切だった。おそらく航とそれほど違わない。世界の終わりを想起させる怯えと苦悶の入り交じった表情など、似合うはずがなかった。自分の置かれている状況を忘れてしまったかのように、航の心がずきんと痛む。と同時に、心の奥に宿る何かがめらめらと燃え上がった。航は唇を真一文字に結ぶと、頷くように顎を引いた。
「ほら、お前もこっちだ」
いきなり思わぬ方向に身体を引きずられて、航は顔をくしゃりと歪める。隼斗は歩幅の違いなどお構いなしだ。ぐらんぐらんと揺れ動く視界。吐き気を覚えそうになり、思わず目を閉じる。
ようやく動きが止まったのと、柔らかいものに身体を投げ出されたのは同時だった。だん、と耳元で乱暴な音が響いた。弾けるように目を見開くといきなり見知らぬ狭い空間にいた。瞬間移動でもしたような心地になる。やけに低い天井とすぐ側に迫る半透明の窓ガラスが、ただでさえはちきれそうな航の心臓を更に圧迫する。どうやら座席が二列あり、航と少女は後ろの方に押し込められていた。車の中か、と見当をつけるまでしばらく時間がかかった。前の座席にはボタンやレバーが所狭しと並んでいる。
「見つからずに済みますかねぇ」
前列の左側に座った神原が、右側でがちゃがちゃとレバーを動かしている隼斗に向かって不安げに問いを投げかけた。この男たちが何をしようとしているのかは分からないが、主犯はどちらかというと隼斗だという印象を受ける。二人とも、まだこちら側の世界にいてもおかしくないような見た目だ。大人になって間もないであろう彼らがどうしてまたこちら側へ戻ってきて、子供の誘拐などを企んでいるのだろうか。
「ああ、心配はいらない。公安委員はもう引き上げてる時間だし、今日は地区総代選挙の日だからな。さすがの地区総代サマも、こんな日までご丁寧に遠視しているはずがない。今頃取り巻きどもを囲って豪勢な食事でもとってる最中だろうよ」
「さっすが隼斗のアニキ、頼りになりますなぁ!」
ひどく下品な笑いが車内を満たす。次の瞬間、車がいきなりうなり声をあげ、笑い声をかき消した。炎がいきなり燃え上がるのを思い起こさせるその音に、航の肌が無意識のうちに反応した。耐火や耐氷といったいわゆる防御系の術であれば、許可を得ることなく使うことができるのだ。
うなり声が小さくなり、車窓から見える風景がゆっくりと流れだした。ただ動き始めるだけでこんなにうるさい乗り物なのだとは知らなかった。教科書にはそこまでの説明は載っていなかった。あるいは教育委員が解説していたのかもしれないが、常日頃からそうであるように、耳から入った情報は脳をかすめることなく耳から抜けていくのだ。
速さを増していく車は、巧妙に光を避けながら闇の中を駆け抜ける。隼斗の言うとおり、誰かに見つけてもらえるという望みはなさそうだ。絶望的な気持ちに襲われつつ、航は隣の少女へと視線をやった。首が折れてしまうのではと思うほど深くうなだれる少女は、眠っているように見えた。しかしそうではないことは、車のエンジン音にときおり混ざり込む異質な音が証明していた。喉が痙攣したような、小さな悲鳴にも似た声。少女は泣いているのだった。背をときおりぴくりと震わせ、大声をあげるのを必死にこらえている様子の少女は、今にも消えてしまいそうな儚さをまとっている。
こんなときに、なんと声をかけたらよいのか航は知らなかった。もっとも知っていたところで、猿ぐつわがはめられたままでは満足に声を出すこともできない。手を縛らなかったのは、逆らえるはずがないと信じ切っているからだろうか。隼斗と神原は何やらぼそぼそと話し続けているが、内容までは聞き取れなかった。上部につり下げられた鏡に映った隼斗の険しいまなざしは、まっすぐに前を見据えている。航はしばらく逡巡した後、少女の頭にぽんと手を乗せた。
これからどうなるのだろうか。じわじわと胸の内を蝕んでいく不安など知る由もない車は月明かりからも目をくらませて、ただひたすらに夜をくぐり抜けていった。