旅人たちの紡歌

晴嵐の少年少女!晴嵐の盟約編 | 第1章-01


 上品な光をたたえるシルクのシャツに、ほどよく着崩した濃紺のジャケット。赤茶色のソバージュ・ヘア。遠くから眺めているだけでも耳が痛くなりそうな黄色い声援を、余裕めいた笑みで彼は受け流す。
「侑利さま! 侑利さま!」
「侑利さま、万歳!」
 壇上で声援を浴びる若い男は、称賛のこめられた自分の名が投げかけられるたびに身体の向きを変え、律儀にも手を振って応えている。夕日を宿して光る猫目は、そんな風に自分を称える群衆のことをさも当然であると言わんばかりだ。それを得るだけの資格が自分にはあることを知っている者の表情そのものである。
「雲雀侑利さま、万歳!」
 ひときわ大きな声があがり、次いで同調するように声援はますます膨らんだ。
 第六十三区、通称雲雀町(ひばりまち)の地区総代選挙。この日、「雲雀町の侑利」は「雲雀侑利」と名乗る権利を勝ち取った。

「かっこよかったなぁ、侑利さん」
 地区総代選挙を見に行った帰り道である。藍色に染まりゆく住宅街に、足音が響きわたる。それが三人の子供のものであることを、地面に伸びた人影が物語っている。真ん中を行く航は、両手を頭の後ろに置いて感嘆の声をあげた。
「あんな人だかりの中で、緊張した様子もありませんでしたね。さすが侑利さんです」
 航の右側を歩いていた朝霧も同調する。次第に点灯し始める街灯が白光を放ち、朝霧の眼鏡に反射した。僕だったら逃げ出しちゃいます、と小さく付け加える。
「当たり前じゃない。地区総代に選ばれるような人よ? 人前に立つとか、大勢の人に囲まれるとか、そんな場面は嫌というほど経験してるはずでしょ」
「ちぇ、成葉(なるは)はいっつもそうやって冷静なんだから」
 淡々と言葉を放つだけの成葉に、航は唇をとがらせた。ちらりと横目で見やっても、粘土で作って張りつけたような表情からは何の感情も読みとれない。耳の下で切りそろえられた髪が、一定のリズムを刻んで揺れている。航は視線を前に戻した。
 人気のない道だった。両側に建ち並ぶ平屋の窓には、不思議と明かりのひとつすら灯っていない。皆、地区総代選挙を見に行ったまままだ帰っていないのだろう。勝ち抜いた侑利はもちろんのこと、その他の候補者だって一般人から見れば羨望の的だ。一言でも会話を交わそうと、あわよくば握手をしてもらえないだろうかと淡い期待を抱いて、一歩でも近づこうと汗まみれの争いを繰り広げる。地区総代への憧れさえあれどそういったものに興味がない航は、侑利の勝利を見届けた後、早々と引き上げてきたのだ。
「そんなことより、さ」
 成葉の冷たい言い草もけろっと忘れてしまったかのような切り替えの早さである。航の声は再び興奮を取り戻した。瞳がきらきらと輝き始めたのは、街灯の光のせいばかりではないだろう。
「侑利さん、誰を右腕に選ぶんだろうなぁ」
「あんたじゃないことは確かよ」
 またしても成葉の言葉が間髪入れずに飛んでくる。朝霧がぷっと吹き出した。
「あ、あったりまえだろ。誰も俺だなんて言ってねーし。第一、侑利さんの知り合いでもないし」
「本当かしらね? 実は俺の隠れた才能に侑利さんが秘かに気づいていて、なんと地区総代雲雀侑利が選んだ右腕は無名の子供! 雲雀町を駆けめぐるそのニュースに、一瞬にして注目の的! そして五年後、侑利さんが二十九歳を終えた後は、意志を継いで地区総代に! ……なーんてシナリオを描いていたり、し、て」
 成葉に肘でつつかれて、航はうっと息を詰まらせる。半笑いのまま硬直した表情には、図星の二文字がでかでかと書かれていた。あまりのわかりやすさに成葉は大きなため息をつき、朝霧は堰を切ったように笑いこけた。
「あははは、そうだったら僕も面白いのですが。それにしても航さん、また無謀な夢を描いていますね」
「夢のまた夢よ。航みたいな体力バカに地区総代も右腕も務まるわけないでしょ」
 成葉は相変わらず容赦がなかった。朝霧も、表現こそ柔らかいものの、言わんとすることは成葉と同じである。航は言い返す言葉を持たなかった。確かに、実技の成績は学校でもトップクラスだと自負している。しかし筆記となると、教育委員すら哀れみの目を向けてくるほどに残念なのだ。左右から飛んでくる友達思いの非情な言葉に、航は両手で髪を掻きむしった。
「二人ともうるさいな! 今に見てろよ。俺は、絶対に総代になってみせる!」
 航の叫び声が、住宅街にこだました。まるでそれに応えるかのように、藍色の空の向こうで糸のような軌跡を描いて星が流れ落ちていった。
 この世界に「出荷」されたときからずっと、航が描いていた夢だった。全部で百三存在する地区からそれぞれ輩出される地区総代、そして彼らの中から選ばれし頂点に立つ者、まさにトップの中のトップ、総代。そのひどく魅惑的な響きは、航の心を魅了するには十分だった。
 しかし自分以外の者がそうではないことに、航は早々と気がついていた。どういうわけか、この世界で暮らしている人々は皆一様にどこか冷めているのだ。感情を表に出さないわけではないが、何かを諦めたように淡々としている。友人の成葉がいい例だ。
「あんたはいいわね、脳天気で。――わたしは早く義務を終えて、廃棄されたいもの」
 ふう、と小さく息を吐いた成葉は、そのまま前方の空を見上げた。街灯に照らし出された成葉の目は、空よりももっとずっと遠くを見ているようだった。
「成葉なんて実技も筆記も学校でトップクラスだろ。地区総代だって夢じゃないのに、俺と違って」
 どこか別の世界に飛び立ってしまいそうな虚ろな様子であった成葉は、その言葉を聞くや否やぎろりと航の方へ首を回した。眉間には年齢にそぐわぬ深い皺が寄っている。
「はぁ? あんた、侑利さんの実力を知って言ってるの? 学校の成績がちょっとやそっと良いぐらいで太刀打ちできる相手じゃないでしょ」
「まぁまぁ」
 放っておくと火花を散らし始めそうな二人の間に、朝霧の慌てたような声が割って入った。分かれ道が近づいてきたからだろう。航と成葉の言い争いは今に始まったことではないし、本気で仲違いする類のものでないことは三人とも心得ている。
「また明日ねー」
「おう」
 朝霧と成葉は同じ方向だ。航はひとり反対側の道へと踏み出すと、立ち止まって手を振る朝霧に笑顔を返した。隣に立つ成葉は首だけを航へと向けて挨拶一つ残さなかったが、これもいつものことだ。特段気にすることなく、航は二人へと背を向けた。